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私はこの経典をはじめてスマナサーラ長老の解説で聞いたときに感激しました。




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協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 『バーヒヤ経』考察  吉水秀樹 こちらのリンクからの方が見やすいかも知れません。 https://anyouji27.blog.fc2.com/blog-entry-19.html 小部経典3:ウダーナ 1.10. バーヒヤの経(10)  初期仏教経典に登場するバーヒヤさんは、最短で解脱した人として知られています。そして、解脱を得られたその日、出家の準備をしている最中に出家することなく事故で亡くなった人物と経典に説かれています。彼は長い旅の末に、托鉢中のブッダに会うことができました。そしてその場で教えを求めました。しかし、ブッダは今托鉢中という理由で二回も後で説法しますと断ったのです。ところが、バーヒヤは食べることは何時でもできるが、何時死ぬかわからないのでその前に浄らかなこころを作ることが大事ではないかと、ブッダを説き伏せて説法を聞く機会を得ました。ブッダはその場で立ったまま説法をしました。念願の叶ったバーヒヤさんは、ブッダの説法を聞いてその場で解脱を得たのです。 『見仏聞法即入無生』(仏を見て、仏の教えを聞いて、その場で解脱に至るという意味)と漢訳経典にある言葉をそのままにしたのが『バーヒヤ経』です。 さて、バーヒヤさんが聞いただげで解脱を得たという、ブッダの言葉とは何だったのでしょうか? 立ち話なので長い説法ではありません。そのブッダの回答の部分だけをパーリ語と日本語対訳で考察してみました。日本語訳は私がパーリ語を習っている正田先生の訳を参考にしましたが、先生は文法に忠実なので日本語で理解し難い部分があるので、その部分は私が意訳しました。 ⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄  ブッダのバーヒヤさんへの返答 ※58

“Tasmātiha te, bāhiya, evaṃ sikkhitabbaṃ—

『バーヒヤさん、それでは、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。

diṭṭhe diṭṭhamattaṃ bhavissati,  

「見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろう。

sute sutamattaṃ bhavissati,

聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろう。

mute mutamattaṃ bhavissati,

思い浮かんだものにおいては、思い浮かんだもののみが有るであろう。

viññāte viññātamattaṃ bhavissatī”ti.

意識されたものにおいては、 意識されたもののみが有るであろう」と。

Evañhi te, bāhiya, sikkhitabbaṃ.

バーヒヤさん、まさに、あなたはこのように学ぶべきです。

Yato kho te, bāhiya,

バーヒヤさん、まさに、あなたにとって、

diṭṭhe diṭṭhamattaṃ bhavissati,

見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろうことから、

sute sutamattaṃ bhavissati,

聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろうことから、

mute mutamattaṃ bhavissati,

思い浮かんだものにおいては、思い浮かんだもののみが有るであろうことから、

viññāte viññātamattaṃ bhavissati,

意識されたものにおいては、意識されたもののみが有るであろうことから、

tato tvaṃ,bāhiya,

バーヒヤさん、それですから

na tena; yato tvaṃ,

あなたは、それとともにいないのです。

bāhiya, na tena tato tvaṃ,

バーヒヤさん、あなたが、それとともにいないことから、

bāhiya, na tattha; yato tvaṃ,

バーヒヤさん、それですから、あなたは、そこにいないのです。

bāhiya, na tattha, tato tvaṃ,

バーヒヤさん、あなたが、そこにいないことから、

bāhiya, nevidha na huraṃ na ubhayamantarena.

バーヒヤさん、あなたは、この世になく、あの世になく、両者の中間にもいないのです。

Esevanto dukkhassā”ti.

これこそは、苦しみの終極“おわり”です』と。

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もっと短く要点を絞ると、

『バーヒヤさん、見たものは見ただけ、聞いたものは聞いただけ、思い浮かんだことは思い浮かんだだけ、意識したことは意識しただけでとどまりなさい。そのときあなたは、外にはいない、内にもいない。外にも、内にもいないあなたはどちらにもいない。それは一切の苦しみの終わりです。』

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 さて、初期仏教の瞑想や仏道修行の経験のない人にはこのような言葉を聞いてもピンと来ないかもしれません。私はこの経典をはじめてスマナサーラ長老の解説で聞いたときに感激しました。

「見たものは見たまま、聞いたことは聞いたまま、考えたことは考えたまま」とは、「膨らみ膨らみ膨らみ、縮み縮み縮み、痛み痛み痛み、音音音」ヴィパッサナー冥想実践のことと理解できます。

何かを見たとき、「色」と「眼」と「眼識」があり、

音が聞こえたとき、「音」と「耳」と「耳識」、

思考したとき、「法」と「意」と「意識」が存在するが、それ以外に何もない。つまり、「私」という実体は何処にもない。

このようなヴィパッサナー冥想を何年も続けています。続けていて、ときどき瞑想の結果か欲しくなるときがあります。達成感…、「できた!」「やった!」という満足感。このように何かを求めている時、瞑想は絶対に上手くいきません。何故なら「我」があり、「私」という中心があって、その「私」が結果を思考の世界で求めているからです。しかし、心配は要りません、そういう自分の意識に気づいて、「意識されたものにおいては、意識されたもののだけが有る」とそこから離れることができるからです。

そこが理解されれば、「見たものは見ただけ、聞いたことは聞いただけ、考えたことは考えただけ」「それ以外に何もない」。それこそが、ゴールだと納得ます。

ほんとうにそれ以外に何もありません。禅宗で言うところの、「只管打坐」(ただひたすら坐る)も、スタートであってゴールなのだと思うのです。アチャンチャーの言葉だと、「電車に乗ってしまったと気づいたら、ただ駅に帰る」そこが、帰るべきMy Home! “Holiday of heart”

※写真は畠中光享先生が描かれた十大弟子のプンナです。

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