7月15日 瞑想日記 『慈悲の瞑想と空気』
- sajipura
- 7月15日
- 読了時間: 3分

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協会の記事ではありません。
サークル仲間の所感です。
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7月15日 瞑想日記 『慈悲の瞑想と空気』
人間関係が厄介なことは、ある意味修行が進んだ阿羅漢でさえ簡単に解決できない…というような言葉を聞いた記憶があります。私の考えでは相手を変えることはできないからだと思います。知らず知らずに相手の領域まで入って、相手を変えようとして苦しんでいる自分に出会うときがあります。
先日も法事があり、準備をすすめていました。お塔婆、本堂の仏花・お香や線香…お寺の運営にも経費が要ります。通常の法事だと、私の寺ではお布施の相場が3万円くらいです。よく知った檀家さんなら、「和尚さん私一人なので簡単にお願いします」と会話して、そのときは1万円くらいの時もあります。何となく、空気を理解して運営しています。
たまに、「あれっ?」と思うこともあります。4.5人来ても、お布施は3千円…、15人ほど来ても、5千円とか…、「仏花の用意だけでも、5千円はかかるのに…」と思うことがあります。そんなときも、私は基本、喜捨の金額に文句は言いません。
1人か2人でお参りにきて、5万円とか置いておかれる人もあり、お坊さんはお金のことを言ってはいけないと、私は親からも教えられています。何より私の寺はそれでも十分に運営できています。喜んで喜捨される檀家さんが多いからです。
お布施の金額が「少ないなぁ…」と感じたときは、慈悲の瞑想をします。
すべての生きとし生ける生けるものが幸せでありますように
テーラワーダの出家比丘がお金に触れないという戒律を守られていることを知っている私には、文句の言える道理は何処にもありまぜん。
形で莫く、こころから慈悲の言葉を念じると、私は本当に相手の人の幸福を願えるようになり、こころか穏やかになります。長老が説かれているように、慈悲の言葉には即効性がほんとうにあるのです。
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◎スマナサーラ長老の言葉 【心は空気のように】
空気というのは、まつたくトラブルを起こしません。どこにでも入っていけます。私の心も、あの人は男、あの人は女、あの人は子ども、あの人は動物など、そういう区別なく、空気のようにつながらないといけません。たとえば人と話しているうちに気分が悪くなったら、「いえ、心は空気のように」と、すぐに立て直します。誰かがわがままを言い張ると、ちょっと怒りをおぼえたりもします。「なぜ、あなたはわがままばかり?」と。しかし、「いえ、そのひとがわがままを言うのは、その人の自由です」と、私はその影響を受けないで、空気のようにいるのです。
そうやって「空気のように」というたとえで、すべての慈悲の瞑想は完成するのです。
心が揺らいだら、空気ではなかったということです。空気はどこにでもあります。法具のおりんの中にも、おりんが置かれているクッションの中にも、空気はあります。しかし、空気は誰の邪魔もしません。おりんの邪魔も、クッションの邪魔もせず、見事に調和しています。そのように、「私の心は空気のように」と、いつも心掛けるのです。
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