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8月23日 瞑想日記 『仏教界の大問題』

  • 執筆者の写真: sajipura
    sajipura
  • 3 日前
  • 読了時間: 3分
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協会の記事ではありません。

 サークル仲間の所感です。  

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8月23日 瞑想日記 『仏教界の大問題』

――藤本慈照師の論文を読んで、私の考えたこと――

★仏教に関心ある人々の中に、二種類があり分裂している。

【仏教学】に関心のある人、いわゆる学者タイプ

【仏道修行】を主軸にしている人、瞑想実践者

 両方の要素が揃えば問題はないが、現実はどちらかに偏っているように見える。

 日本仏教はどちらかと言えば、学者がピラミッドの頂点に立っていることが多い、〇〇大学の名誉教授が、〇〇宗の御門跡に就任するなど…

 私は後者で、子どもの頃から本は読まずに、野原で遊び呆けていました…笑

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★禅定と悟りの区別が大事!

 日本仏教の世界でも体験的に悟りの話が出てくるのですが、それが【悟り】ではなくて、【禅定】の話であることが多々ある。

そもそも、極端に言えば禅宗系のお坊さんたちは、禅定を悟りと勘違いしている方が多いのではないか…?

 藤本先生も、「禅定は一時的な解脱といわれるほど解脱と似ています」と書かれています。確かに、そもそもきちんとした道筋で坐らないから、禅定自体が起こり難い…禅宗なのに初禅もしらないお坊さんが多いのでは…。

初期仏教のマハーシ式…?(スマナサーラ長老の指導法)でヴィパッサナー瞑想を最初から実践すると、「禅定は目的ではない」と初めに教わります。禅定体験が起きても、「あぁ…こういうことも起こる」と軽く流して観察を進めます。

 このような指導を受けていない人が、長時間の苦労の末に禅定体験をしたら、「私は悟った!」と勘違いするのではないでしょうか? そこでこころの成長が止まるとも知らずに…。

 瞑想が終わって、また欲や怒りが現れたのなら、それは解脱ではなく、単なる禅定体験であったことがわかる筈ですが、自己実現の夢希望を持っていたいた人は、そこで「私は達成した」と勘違いするのでしょう。この手の自称聖者は、仏教系でもヨガ系スピリチュアル系でも、けっこういます。

 ほんとうに解脱した人は、決して「私は解脱しました」とは言いません。そう言う自我が消えたのだから、静かに暮らしておられます。

 そもそも、お釈迦さまが未だ解脱しておられない修行者であった頃、二人の仙人から禅定の境地を学び自らその境地に達した話は有名です。しかし、お釈迦さまは、「これは私が求めている苦しみからの完全な解脱ではない」と師匠の仙人から離れました。

 初禅から、第二禅定、第三禅定…と、肉体から離れるような体験をしても、「これではない」とキッパリ禅定を捨てられました。

 私たちも、ブッダの瞑想を実践するにあたり、瞑想は禅定samādhiが目的ではなく、ただ只管観察する、解脱に至ることが目的と理解しておくことが大切です。欲や怒りから離れた、安穏の世界=涅槃です。

 実はパーリ語経典を読んで学んでいると、禅定が目的ではないことをお釈迦さまは随所に示唆されています。(スッタニパータ第四章・五章)

 何者でもない、空っぽの人、苦しみの終焉を見た人の言葉が記録されています。

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★如来蔵・仏性という邪見

 お釈迦さまの教えから、離れていった大乗仏教の世界では、更に【如来蔵・仏性】という概念が生まれます。

 煩悩をもっていても大丈夫だよ! その奥に如来蔵・仏性があり、元々悟っているのだから! みたいな、妙に楽で安心できるような思想です。しかし、私から見たら、こうなると宗教、信仰の世界に逆戻り、元の木阿弥です。

 仏教は、自ら理解し修行し、こころを育てて、解脱に至る教えです。これは、従来の宗教・信仰という、カテゴリーには入りません。

 世界の三大宗教などと、同レベルで理解することが間違いです。仏教は人間界を超える為の教えです。(実践する者が涅槃に至る=無生)

 
 
 

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