top of page

【「また会いましょう」じゃない。「また会いません」なのです】

  • 執筆者の写真: sajipura
    sajipura
  • 9月4日
  • 読了時間: 6分

ree

++++++++++++++++++++++++++++++++

協会の記事ではありません。

 サークル仲間の所感です。  

++++++++++++++++++++++++++++++++

【「また会いましょう」じゃない。「また会いません」なのです】2025.9.4月の熱海の仏法学舎での一週間のヴィパッサナー。長老に何度か質問する機会があった。こちらはその一部。

「質問:病気で生活が大変になり、トイレに行く、階段を上る、台所に行くといった動作が大仕事になってきています。

その時、ベッドから起きる、右足を下ろす、左足を下ろす、といった一つ一つの動作を細かく〝達成〟として暮らすようになりました。

今回、「動詞で生きること」と「目的にとらわれない」という暮らし方を教えていただきました。

行為にはすべて目的があるのですが、棚の上の皿を取る動作でもただ「(手を)上げる」「(皿を)つかむ」「(皿を)下ろす」と、ただ動詞で捉えていく。目的にとらわれない。結果を得ようとしない。瞬間瞬間が、目的であり結果である。このことに気づいたのは大きな発見でした。」

◎スマナサーラ長老の答え

生命はターゲットを決めて動きますが、ターゲットは将来のことで、今は存在しません。

例えば、「熱海駅に行く」と決めた瞬間、ターゲットは熱海駅ですが、自分の経験の世界では熱海駅は存在しません。

過去の熱海駅の記憶に基づいて目指すのですが、実際の熱海駅はそれと一致しません。毎回訪れる熱海駅は微妙に異なり、瞬間ごとに変化します。

ターゲットを設定すると、現実とずれるのです。

お腹が空いてご飯を食べたいと思っても、頭の中のご飯のイメージと、実際に作ったご飯は異なります。プロのシェフは同じ味を再現しますが、普通の人は毎回異なる料理になります。人生ではそれでいいのです。

昨日の茄子料理と今日の茄子料理が違ってもいい。同じ味を再現する必要はありません。比較すると、今の味が分からなくなり、妄想の世界で生きることになります。

現実の世界では、今日の茄子を食べたらそれで終わり。一回きりの味を大切に味わうべきです。

電車で子供と楽しい過ごしたことがあります。

あるおじいさんが、私たちを見て「この楽しい時間は短いから大切にしなさい」と言いました。私の子供だと思ったのかもしれません。おじいさんは、自分の子育ての経験から、「子供の可愛い時期は短い」と知っていて、「だから大切にしなさい」とアドバイスしてくれたのです。素晴らしい言葉ですよね。

子供との楽しい時間は本当に短い。すぐ大きくなって、面白くなくなります。小さい時はとても可愛いものです。物事は流れ、過ぎ去ります。「あの経験をもう一度」と思う人は、その時点で愚かです。

 ▽

すべては一期一会、つまり一回きりで二度と繰り返されません。

これは仏教の真理です。勉強でも、修行でも、「今」を真剣に取り組むからこそ意味があります。

「後でやればいい」「リピートできる」と思うと、いい加減になり、悟りには決して達しません。失敗してもやり直せるかもしれませんが、真剣に取り組むべきです。一期一会を意識して頑張りましょう。

今、瞑想が面白かったとしても、次で頑張ろうと思うと、すでに歳をとり、衰えています。「次でできる」と思わず、「今回で何とかする」と決めないと成長しません。

極端に焦る必要はありませんが、のんびりする暇はないのです。仏教では、「明日死ぬかもしれない」と教えます。「今、頑張りなさい」と。

「また会いましょう」じゃあないんです。「また会いません」なのです。瞬間瞬間変わっているからです。

 ▽

心のエネルギーを強くして、燃えるように修行してほしい。髪の毛に火がついたような気持ちで取り組むべきです。

お釈迦様は「人生は燃えている」と言いました。瞬間ごとに生老病死で燃え、衰えています。目で見る、耳で聞く、身体で感じる、味わう――すべてが貪瞋痴(とんじんち、欲・怒り・無知)の炎で燃えているのです。この炎に気づき、観察することが大切です。

最初の弟子である五人の比丘に、お釈迦様は「すべてが燃えている」と教えました。

目で見ると視覚と同時に貪瞋痴が生じ、耳で聞くと聴覚と同時に貪瞋痴が生じる。それらが人を苦しめるのです。五感から貪瞋痴が生まれる。だから、目で見るとき、耳で聞くとき、貪瞋痴の炎が燃えないよう気をつける。

「見える」「聞こえる」「感じる」と実況中継すれば、貪瞋痴は生まれません。実況中継は仏教で「念(サティ)」と呼ばれる、現実に生きることです。過去や未来に生きるのをやめ、現在の瞬間をありのままに生きる。

 ▽

過去や未来は観念、妄想の世界です。現実の世界は恐ろしく変化しますが、妄想の世界は変化しないので、気楽に感じるのです。でも、それは麻薬中毒と同じようなもの。現実の世界で生きるのは大変ですが、そこに真理があります。

お釈迦様は、目、耳、鼻、舌、身、意の六根が貪瞋痴の炎で燃えていると教えました。家が燃えているなら逃げるように、貪瞋痴に執着するのは無意味です。目は私のもの、愛着すべきものではありません。目で見るたびに貪瞋痴の炎が燃え、耳で聞くたびに苦しみが生じる。六根から苦しみが生じるのは、貪瞋痴の炎が現れるからです。

「ただ見えている」「ただ聞こえている」と流れるままに捉えれば、執着は生まれません。滝が美しいのは無常だからです。六根も無常で、滝のよう変化するから面白いのです。人間の間違いは「あの経験をもう一度」と願うことにあります。

もう一度恋をしたいと思っても、それは不可能です。一切は無常であり、執着は不可能だと気づいた人は執着しません。

子供に執着しても、子供は一時的に依存しているだけで、すぐに自律します。夫婦や親子も、ずっと一緒にはいられません。すべては別れ、離れていく。身体でさえ、かかとの痛みで動けなかったり、協力してくれません。

 ▽

鳥の例えで考えてみましょう。鳥は木に止まり、食べ物があれば食べ、なければ次の木へ飛びます。「食べ物がなくて困った」とは思わず、ただ次の木へ行く。子育てのときだけ一時的に留まりますが、荷物は翼だけで、簡単に移動します。人間は引っ越すにも大型トラックが必要ですが、物が少ない方が楽です。

すべてはレンタルだと考えるべきです。家も家族も子供も、自分のものではありません。家に住むにも税金を払い、家族や子供を「私のもの」と呼べば、それだけコストがかかります。他人の家や子供なら無料なのに、「私の」と呼ぶと有料になるのです。

「私の」という考えが苦しみを生みます。

現実には「私の家」「私の家族」は成り立たず、すべてレンタルです。身体もレンタルで、生きるために条件を払い続けます。死ぬ瞬間まで払い、死後も遺体の処理に誰かが払う。

人生はレンタルだと理解すれば、楽に生きられます。文句を言わず、わがままを言わず、納得して生きましょう。

頑張って、執着を手放してください。

 
 
 

最新記事

すべて表示
【お経は一つ一つがブッダの講義のよう】

++++++++++++++++++++++++++++++++ 協会の記事ではありません。  サークル仲間の所感です。   ++++++++++++++++++++++++++++++++ 池谷  啓 【お経は一つ一つがブッダの講義のよう】 2025.9.5...

 
 
 

コメント


bottom of page