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【お経は一つ一つがブッダの講義のよう】

  • 執筆者の写真: sajipura
    sajipura
  • 9月8日
  • 読了時間: 4分

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協会の記事ではありません。

 サークル仲間の所感です。  

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【お経は一つ一つがブッダの講義のよう】 2025.9.5

先日の熱海の仏法学舎でのヴィパッサナーの実習の合宿。スマナサーラ長老に質問したときの法話。

「池谷の質問」

私はこれまで大乗仏教を学び、観音経や法華経、般若心経などを好んで読んできました。

今回の合宿では、初めてパーリ仏典を毎日読みました。毎日パーリ仏典を読むのは私は人生初の経験です。

私は肺がかなり弱くなってしまっために、声が出ませんので、経典の文字と訳を読みながら、その内容が本当だなあと感じました。

一つ一つ丁寧に見ていくと、エーヒ・パッサコ(ehi passiko:来て見なさい)「アカーリコ(akāliko:時を超える実証される)」

」「ヤターブータ(yathābhūta:あるがままに知る」)など、言葉の意味が非常に深いものだと感じました。そこで、経典についてお話しください。


「スマナサーラ長老の法話」

●お経は一つ一つがブッダの講義のよう

昔、経典は暗記され、正確に伝えるために繰り返し唱えられました。お釈迦様の言葉に誤りが入ると問題になるため、正確さが重視されました。

ブッダの教えは「エーヒ・パッサコ」(ehi passiko 来て、見なさい」)「アカーリコ」(akāliko:時を超える実証される)」「ヤターブータ(yathābhūta:あるがままに知る」)と表現されます。

すべてがオープンで、秘密や隠し事はありません。「自分で調べて確かめなさい」という姿勢です。ブッダの教えは事実に基づき、自信を持って開示されています。

宗教の世界でこれほどオープンなものは珍しいでしょう。 多くの宗教が「神の言葉を信じなさい」と説くのに対し、ブッダの教えは礼拝や儀式に頼る必要はなく、信じるべき項目は一つもありません。お経は一つ一つがブッダの講義のようで、直接的かつ実践的です。読むだけで深い影響を与えます。

『スッタニパータ』の「バッティカーラー章(Bhaṭṭikā-vagga)」では、「過去は過ぎ去り、未来はまだ来ていない。現在の現象をありのまま観察し、智慧をもって修める」と説かれます。過去や未来に囚われず、今を観察することで真理が見えてきます。

  一方、大乗仏教の経典は後世の僧侶が編纂したもので、哲学的に興味深いですが、ブッダの直接の言葉とは異なります。大乗仏教は信仰的要素が強く、原初の仏教とは別物です。

仏教の教えそのものは宗教ではなく、実証に基づく智慧の道です。多くの宗教には実証できない「信じるべき項目」がありますが、仏教にはそれがなく、「来て見なさい、調べてみなさい」と促します。

お釈迦様は、宇宙が膨張・収縮し、太陽が現れ消え、無限に繰り返すと説きました。地球が生命の中心という考えは誤りで、宇宙には無数の生命システムが存在します。科学の発展や新しい生命体の発見も、仏教の教えには影響を与えません。仏教はすべての生命を包含しています。

 ●慈悲の実践

お経には「慈悲の瞑想」が含まれ、毎日実践することが奨励されます。お彼岸やお盆だけでなく、日々の供養と共に慈悲を培います。

慈悲とは、どんな生命も幸せであるべきと願う心です。長い生命(ディーガ)、巨大な生命(マハンタ、例:クジラ)、小さな生命、目に見えない生命(精霊、餓鬼、神々など)――形や生き方は異なりますが、すべてが幸せを願われる対象です。形は重要ではなく、すべての生命が幸福であるべきです。

慈悲とは、差別の心を取り除くことです。差別は「自分が完璧だ」という誤解から生まれます。たとえば、慈悲はゴキブリやヘビにも等しく幸せを願います。命として見れば、ゴキブリもヘビも懸命に生きています。私はゴキブリを見ると「命が生きている」と感じます。

しかし、命には虚しさもあります。命のシステムは残酷で、互いに食い合います。キャベツやニンジンも命です。小さな生命は大きな生命に食べられ、植物は動物に食べられます。ある命が別の命を支えるのです。

鳥はゴキブリを食べ、ヘビはカエルを食べます。私はヘビがカエルやネズミを食べるのを見ました。ヘビがカエルを飲み込む瞬間、カエルは鳴きます。ヘビの歯は後ろに曲がっており、噛まれたカエルは逃げられません。

草食動物はひたすら食べますが、一日三食を規則正しく食べるわけではありません。人間が魚を食べるのは、魚が攻撃できないから、ただ力強いだけです。魚の命より自分の命が尊いという証拠はありません。身を守るために他の命を攻撃するなら、できる限り命を奪わずに済ませるべきです。

弱いものを食べて生きる生き方は本当に尊いでしょうか?

 生きることは残酷なプロセスであり、その事実を隠すために愛着が生まれます。「ただ生きていきたい」「死にたくない」という感情は、心のアルゴリズムです。

道徳は必要ですが、単純に割り切れません。一人で生きるために、どれだけ他の生命に迷惑をかけるでしょうか。この残酷なシステムを乗り越えるには、ブッダが説くように、生きることへの愛着を手放すことが鍵です。

答えは悟りに至ること、つまり「達する」ことです。それ以外に答えはありません。

 
 
 

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