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三回礼拝するのは、支配を受け入れることではなくて、慈悲と智慧を育てますという決意でないと、意味がない!


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協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。

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冥想日記 12月7日   相応部 悪魔相応 衆多経の法話を聞いて

 まず、前半部分を聞いて学んだこと。

★仏教で説く「悪魔」mālaとは、世俗の立場で人類が仏教に反論する、その自分のこころの囁きのようなもの。このことはダニヤ経でもそう思いましたが「人類が仏教に反論する」という長老の言葉は興味深いです。 「人生は短いし、生きている間に、旅行を楽しんで、美味しいもの食べてなきゃ!」とマーラはこころで囁く。

★仏教で説く「放逸」とは、時には真面目に会社で働くことであったり、解脱に向けてやるべきことをしていないこと。

★仏教は元々青年向きの教えである。 それは反逆精神が不可欠という意味で、既存社会に対して革命的な精神で望まないと精神が進化しない。確かに、信仰を求める精神は老化した精神で、なので日本のお寺には老人が集まり、たまにいる若者でも何かに依存したいという精神の持ち主である場合が多い。  テーラワーダ仏教に出会った人でも、そこで模倣し、形式や秩序を求める人が少なくない、そうして特定の態度や行動を信仰的に受け入れてしまう。形は直ぐに取り入れるが、肝心の物事の真相を見抜く力が育たない。  支配されることを望んでいないか? ブッダが語った「独りあること」「自燈明・法燈明」という言葉を思い返しました。

「真理に出会ったら、真理を捨てよ!」 「ブッタに出会ったら、ブッダを捨てよ!」

三回礼拝するのは、支配を受け入れることではなくて、慈悲と智慧を育てますという決意でないと、意味がない!

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