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ヴィパッサナー冥想で自我の錯覚を破る

更新日:2018年9月4日

協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職のfbより紹介です。

蓮の花
ヴィパッサナー冥想で自我の錯覚を破る


冥想を始めたころはわかりませんでしたが、思考はすべて過去のものでヴィパッサナー冥想には思考は要りません。ただ今の瞬間、ありのままを観察する直観だけがたよりです。だから、毎日挑戦しますが、毎日ゼロからのスタートです。慣れたり、テクニックの上達もありません。

 たとえば「私は誰?」という問いかけがあるとして、その問いに思考(過去)を交えずにただ観察で挑みます。普段、私としている名前や職業、肩書年齢は「知識や過去」に起因するもので、名称は「かぶりもの」です。それはイメージや妄想でつくられたものです。今ここの直観だけで見るとき、普段「私は日本人」と考えているような事実はありません。それがほんとうの事実なら、誰が見ても、犬が見ても日本人と判るはずですが、それはあり得ません。名前や性別も今ここでは見つかりません。

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 ブッダは先ず、私を五つの塊りに分けました。色と受想行識の五蘊です。確かに、痛みや足の痺れは今ここで発見できます。これを「感覚」受vedanāといいます。しかし、この感覚は刻々と変化して実態はありません。鳥の鳴声をきいて「カラス」と想念が浮かぶように、自分の名前や仕事も浮かびますが、これは記憶であり、今ここにあるものではありません。 それを想saññāと呼びます。記憶や知識です。これも「かぶりもの」であって、いくつでも都合のいいように現れますが、そもそも記憶や知識はいい加減なものです。それは冥想で発見できる真実ではありません。

 興味深いことに、冥想では自分の性別も発見できません。自分が日本人でもない、性別も判らないと達観したとき、言いようのない楽があります。身体が浮いたように軽くて楽です。自我の妄想が壊れてきたのです。持ったら重い、手放せば軽いです。

 心地よい、蒸し暑い、嬉しいなどの感情も発見できます。これを行sankhāraといいます。感情のことです。感情こそ刻々と変わります。感覚と知識と感情を織り交ぜて、思考(妄想)します。これを識viññānaといいます。普段している思考認識のことです。思考は今こことは無関係に脳裏に浮かぶものなので、相手にしません。  冥想をつづけると、思考しているときに同時に時間が経っていることに気づきます。時間とは思考の産物であり、思考のないとき、時間もないことが理解されます。時間が妄想の産物だという意味がわかるでしょうか?  ほんとうにあるのは、今ここの瞬間だけである。過去や未来は実在しないことは理解できるでしょう。

 修行を正しくつづけると、妄想が減ります。感覚や想念だけがただ生まれては消えていきます。妄想は簡単にはなくなりませんが、相手にしないと落ち着いて丁寧に観察されるので、その場でそのまま因果法則で消えていきます。妄想にちょっかいを出すと、妄想はエネルギーを得てしばらく因果法則で継続します。

 放っておくことが智慧です。放っておくことは、何事にも無関心で生きることではありません。痛みや不快感を感受しても、痛み・不快感と観察して悩みません。ヴィパッサナー冥想では、何が起きても放っておく能力を育てます。放っておくこと自体が智慧の働きです。長老はあっさりと、一切の現象に対して放っておく能力が現れたら、それを仏教用語で「解脱」と言うのですと説かれました。




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