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――意志 cetanāチェータナー : 行為を起こさせる働き――



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協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。

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4月16日 冥想日記『意志 cetanāチェータナー=intention』 ――意志 cetanāチェータナー : 行為を起こさせる働き――  サンニャーの次の項目が「意志」です。テキストには「弱い意志も、強い意志もcetanā」とあります。これは何気ない表現ですが、とても深い意味があります。  私は初期仏教の瞑想を知る前に、「ものがある」という前提条件をもって生きていることに気づいていました。この「ある」と考えていることに違和感を感じはじめたことは、人生の大発見でした。いったい何が「ある」というのでしょうか?  あるとき、私は目を閉じて瞑想していました。そして、瞼を開けた瞬間に、何であれ対象を探し出す衝動が動き出していることに気づきました。あれが微細なcetanā、「志」です。それがありのままを見ることを邪魔していることを発見したことが、私の人生の新たな起点でした。最初から「何かある」という前提をもって対象を見る、というより、自分勝手に切り取るのですから、これではあるがままから離れるのは当たり前です。  人間にはどんな時でも、このcetanāが作用していることの発見は大きいです。その意志で人生を描き造るのですから。  スマナサーラ長老は、「カルマkāmma業とは、意志cetanāのことです。」と断言されています。大胆な行為だけがカルマで、日常の微細な行為や意志はカルマではないと考えるのは間違いです。どんな小さな行為でも、そこに意志があればカルマをつくります。ただ、cetanāにはカルマになるものと、ならないものもあります。先ほど話した、瞼を開けて何かを見ただけで、cetanāは働いていますが、それだけならカルマにはなりません。そこに明確な意志が働くとカルマになります。  生きていたら、六根に触れるいろいろな情報に出会いますが、それだけではカルマにはなりません。それらに触れて、「欲や怒りの感情」が入った瞬間に悪いカルマになります。反対に「慈しみのこころ」が生れたなら、それは善いカルマになります。  仏道の目的は、善の心所を大きく強く育て、悪の心所をなくすことです。自分のこころの動きを観察して、善の意志cetanāによって、行動を起こし悪業を断ち切り、善業を引き寄せるのです。これが日々の瞑想にほかなりません。

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