冥想日記 『識』viññānaについて、―考えることが問題―

最終更新: 2018年10月31日



協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。


 ■冥想日記 


『識』viññānaについて、―考えることが問題―


 今朝歩く冥想をしていました。足元の黒いものを見て、「動物の糞」と思い一瞬立ち止まりました。よく見たらそれは「棒切れ」でした。よくある出来事です。

認識が起こるには、対象物(色)と目(眼)と意識(眼識)の三つが必要です。

認識が生まれる仕組み 》 色  声  香  味  触 法 (六境) シキ  ソウ  コウ  ミ  ソク ホウ  ロッキョウ ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓ 眼  耳  鼻 舌  身  意 (六根) ゲン  ニ  ビ ゼツ  シン  イ  ロッコン

「触れる」触(そく)   ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓

眼識 耳識 鼻識 舌識 身識 意識 (六識)ロクシキ

 

私は見間違えと気づいて、ホッとしました。次に「私がそのように見ている」と気づきを入れました。私は見間違いに気がつきましたが、対象をありのままに見ているわけではありません。普通、「糞」と見るのは見間違えで、「棒」と見たら正しく見ていると考えます。しかし、長老方の仰っている『人は自分の見たいように見ている』という意味は、「棒切れ」を「糞」と見ているという意味ではありません。「何だ、棒切れか!」というその認識自体に「自分の見たいように見ている」という問題が含まれています。

 「棒切れを棒切れと見たのだから、問題はないではないか。」と言う人も多いと思います。 しかし、ブッダの冥想実践者ならば、そこに「私がそのように見ている」という、気づき(サティ)が不可欠です。  「私がそのように認識している」というのが真相なのですが、社会動物である人間には共通主観というものがあり、多くの人が「誰もがそう見ている」「そう見ることが正しい」「私は事実を見ている」「これは正しい見解である」と思い違いをしています。この壁を破るのは並大抵ではありませんが、ブッダの冥想実践者の登竜門です。

 仏教でいう、「正見・正しい見解・ありのままに見る」とは、見解を持たないこと、見解がないことです。スマナサーラ長老は、「見解はすべてゴミ。仏教はどんなゴミを捨てて、どんなゴミを拾うおうかという話には興味がないのです。」と仰っています。正しい見解はないが、存在欲によってつくられた無数の見解があるだけのようです。

 それなのに未熟な私たちは、四六時中見解をつくります。だからこそ、最低限の注意として、「私がそのように見ている」と気づき(サティ)を入れるべきなのです。ヴィパッサナー冥想はその日常の訓練修行です。音音音、感覚感覚感覚、考えている考えている、さ迷ってるさ迷っていると、「感受で止める」「思考妄想に気づく」のはその実践です。そうして、そのような認識回路とそれ自体を眺める回路をつくることが修行の中味です。  このように話すと大変なことのようですが、対象を見て、認識が起こり、次の瞬間に気づきが入るので2.3秒の出来事です。この気づきで人生が、明るく軽く幸せに生きられる確信が生まれるので、もうこの道から外れることがありません。

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