十夜法要レポート 『有漏と無漏』 

最終更新: 2018年11月15日




協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。


 十夜法要レポート 『有漏と無漏』          2018年11月11日 於:安養寺

 仏道修行、冥想、こころを育てるとは、「自分を知ること」に違いありません。自分を知るというとありきたりな言葉ですが、自分を知ることを完成させたら、それが覚者であり、仏教の最終目的の涅槃に至ることとも言えると思います。  日常の自分のありのままを知るのに「有漏」という言葉が役に立ちます。「漏」「漏れ」とは、こころの汚れ、煩悩のことで「感情」と理解するのが実践的です。お釈迦さまの時代から使われていた言葉で、パーリ語のāsavaアーサヴァが「漏」と漢訳されました。 喧嘩や言い争いは、「漏れ」を通りこした、「ただ漏れ」「たれ流し」なので、感情が漏れはじめたときに速やかに気づいて漏れを止めることが大切です。 最初に私たちは「漏れ」のある自分を認めることからはじめます。世間の人々も漏れがあります。立派な大人ですが、みんなオムツをして生きていると見てください。さて、「漏れ」を認めたら、何処から、煩悩(感情)が漏れているのでしょうか?  お釈迦さまは、六根から漏れ出ていると説かれました。六根とは、眼耳鼻舌身意です。他者に対して悪感情をもって「睨む」とき、眼から漏れています。世間話、噂話をしている内に、ある人の悪口を言いたくなったら口から漏れます。無慈悲で自己中心的な行動は身体と行為から漏れています。こう考えると確かに、全身から煩悩が漏れていることが理解されます。漏れの大元は、六番目の「意」、こころに違いありません。

 悪感情・悪口・嫉妬・妬み・貪欲・怒り・執…などが、漏れと思いがちですが、私は最初に生まれる「欲」の感情が漏れのはじまりだと思います。「欲」は、人間社会生活で必要不可欠なものです。仏教を学びたい、法話会や冥想会に行きたい、家族を幸せにしたい、美味しいものを食べたい。すべてはじまりは「欲」です。その欲を放っておくと、何が何でも、我先に、人を押し退けてでもと、「欲」が危険な「貪欲」に変化するのですが、「漏れ」と言われているのは、「貪欲」のことではなくて、はじめの「欲」に気づくことだと私は理解しています。

 仏教の冥想会に行きたいといった善行為であっても、その「欲」や「意志」を野放しにしておくと、それがそのまま執着になってしまいます。「欲」には理性がありません。この具体例は以前にお話したので省略しまが、「欲」を捨てて、淡々とするべきことをすればよいと思います。

 「有漏法」という言葉があります。その意味は俗世間、私たちの生きているこの娑婆世界のことです。私たちが生きている世界は、「欲」があってこその世界です。四諦でいう、「これありて、かれあり」苦・集の世界です。欲があって、社会は成り立っています。これに対して、「無漏法」とは、彼岸のことであり、四諦でいう、「これなければ、かれなし」滅・道の世界。無智と欲が消えれば、悩みも苦しみもありません。

さて、日常生活では、「言葉」と「眼差し」に注意するということで、法話をしめくくりました。

★言葉とは、「何か言いたい」「一言言いたい」とする衝動に気をつけること。一旦停止して、その衝動が消えてから話すこと。間違っても、悪口は言わないこと。噂話・無駄話・世間話には気をつけて、可能な限り離れること。そこに居ない人の話は妄語と理解して要注意! ブッダは口には二枚の刃があると説かれました。

★眼差しとは、何かの行為をするより、慈しみのこころを育てて、慈しみのこころで世界を見ることです。学校や会社で虐げられている人がいたら、自分は何もできなくても優しい眼で見ることならできます。実際に何かの行動をするより、慈しみのこころで見る、眼差しにこそ世界を変える底知れない力があります。世間では、儲けよう、勝とうとせめぎ合い、「睨み合い」がまかり通っています。仏教者である私たちは、慈しみのこころを育てて、ブッダの眼差しで世界を見るように努めるとです。何かをするのでなく、見るだけなので、誰でもいつでもその場で実践できます。




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