協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。
無漏という生き方 Ⅱ
昨日の日記は少し話題がねらいと違った方向に進んでしまいました。「有漏」と「無漏」と言う言葉を知って、私たちの日常の生き方の道しるべを示そうとしています。
「あおり運転」という言葉を耳にするようになりました。死亡事故や事件が起きて、車の運転をする人には他人事ではありません。先日、御在所岳湯の山温泉に遊びに行きました。新名神ができて、京都から御在所岳までは、1時間少しで行けます。新名神高速道路は部分的に三車線もある広い道路で、スピードが出やすいです。半面ゆるやかな登りもあり、スピードが落ちます。その登りを走っていたら、10㌧車が10㌧車を追い越していて、スピードが時速80㌔以下に落ち、四五台の車が連なる場面がありました。10㌧車の後ろに乗用車が三台連なって、その後ろが私でした。見ていると前の車は、その前の車との車間距離が目測20mもなくて、危険を感じました。ハンドルを左右に切って車体がゆれています。俗に言うあおり運転です。たぶん、本人は自分が危険な運転をしているとは気づいていないと思います。
私は車間距離を保っていましたが、ルームミラーで私の後続車を見ると、車間距離が目測で20mもありませんでした。前にも後ろにも、危険な運転をしている人がいるわけです。私は怖くなって、左車線に回避しました。 車を運転していたら、誰もが「目的地に行きたい」という「欲」を持っています。これは当たり前のことです。しかし、この「欲」が「我先に!」「何が何でも!」「他の者は邪魔!」となった時には、「欲」が危険な「貪欲」「執着」に変化しています。「欲」の段階で、「漏れ」がはじまっています。気づきのあるものは、この「欲」の段階で「有漏」(漏れが有る)ことに気づいて、それを捨てなければなりません。
冷静に考えたら、前に10㌧車が二台走っているので、それ以上前方に行くことはできません。なのに、車間距離を縮めて左右に車体をゆらせて前に行こうとしています。無智としか言いようがありません。このような人にクラクションを鳴らして警告すると、「貪欲」が「怒り」に変化して、さらに危険です。あおり運転で事件が起きるのは、このような売り言葉に買い言葉で、無智と貪欲と怒りの三毒煩悩が背後で糸を引いていることは間違いありません。 けっきょく、その後2.3分で渋滞は解消して事故も事件も起きませんでした。車の運転をする人は、このような場面に出くわしたら、その場から速やかに離れることが得策だと思います。有漏の人(感情のある人)の行動はともかく目につきます。一方、無漏という生き方を実践している人は、ただ気づきを保って運転しているだけなので、人の気配も感じません。 「有漏」と「無漏」という言葉を理解して、漏れのない生き方をしたいものです。
※「有漏と無漏」の話は、明後日、11月11日(日)にある「十夜法要」のネタです。
댓글