無常偈  諸行無常 aniccā vata saṅkhārā 色は匂えど散りぬるを

最終更新: 2018年9月14日


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協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。

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無常偈  諸行無常 aniccā vata saṅkhārā 色は匂えど散りぬるを  是生滅法 uppādavayadhammino わが世誰ぞ常ならむ 生滅滅已 uppajjitvā nirujjhanti  有為の奥山今日越えて  寂滅為楽 tesaṃ vūpasamo sukho 浅き夢見し酔ひもせず

 無常偈は言うまでもなく、仏教思想の根本となる偈文です。最近知ったことですが、テーラワーダ仏教では葬儀式の時に必ず読まれるそうです。私の寺では先代から口伝された告別式の引導文があるのですが、実はその中にもこの無常偈が使われています。テーラワーダ仏教と日本の浄土宗の寺にもちゃんとブッダの教えの共通項があったわけです。  その部分は私も暗記しています。 『嗚呼、無常なり諸行は生と滅とは一致する、生じては滅し、滅しては生ず。この寂滅がすなわち安楽なり。』です。

 漢訳の漢字16文字では見えない内容が、元のパーリ語を読むと理解できます。  たとえば、一文字目の「諸」はどこから来ているのでしょうか?  saṅkhārā が「行」に当たります。saṅkhāra が元の語です。āとなっているのは複数形を意味します。そこで「もろもろのサンカーラ」なので「諸」という漢字が当てられたのです。もっともsaṅkhārā「行」の意味がとても広いくて深いです。この場合の「行」はおそらく最も広い意味で使われています。目に見えるものや認識の対象となるすべて、つまりこの世のすべてという意味でしょう。ただし、そこは実際に冥想によって、すべての現象を観察する実践をしないと空論になってしまいます。  aniccā は元の形は、niccaであって、「常」です。aは否定の接頭語で「無」です。「常で無い」という意味で「無常」となります。vataは副詞で「実に」という意味です。そこで、「もろもろの現象は実にうつろい壊れゆく」といった日本語訳がすんなりと理解できます。

 さて、この無常偈は「いろは歌」としても有名です。いろは歌はお釈迦さまの前世物語の「雪山童子」の物語として語り継がれています。お釈迦さまの前世で雪山童子であったとき、ヒマラヤの奥で修行されていました。冥想していたら、羅刹(人を喰う妖怪)が歌を詠みます。これが無常偈の前半です。

  「色は匂えど散りぬるを わが世誰ぞ常ならむ…」

童子はこの偈がただの詩句ではなく真理を説くものと直観し、羅刹に偈の続きを聞かせてくれと頼みます。羅刹は教えてやるが「教えたらおまえを喰いたいので命をくれ」と言います。童子はこの偈の後半を聞けば解脱に至ることを直観し、真理を知らば身体に対する執着も消えるので羅刹に後半の偈を聞かせてくれればこの身をおまえにやると言います。

 羅刹は後半の偈を読みます。 「有為の奥山今日越えて 浅き夢見し酔ひもせず」

 すべての偈を聞いた童子はその場で真理を理解します。そこで、羅刹に無駄な殺生をさせない為に、自ら崖から投身します。そのとたんに、羅刹は帝釈天に姿を変えて童子を救い取り、後生にこの真理を人々に説くように雪山童子に頼んだというお話です。このような歴史があって、現在私たちが無常偈に触れることが出きるのかと思うと感慨深いです。

 さて、後半の偈は、生じては滅し、滅しては生じるこの有為の世界では、得した損した、儲かった損した、美味しかった不味かったの感情の流転(輪廻)に終始し、そこには本当の幸福などはない。ほんとうの幸福とは、この生じては滅する、滅しては生じる、生滅の連鎖反応が完全に終止した、もう二度と母体に宿らない寂滅(涅槃)にある。これこそが真の幸福であると説かれてあります。なるほど仏教思想の根幹に違いありません。   ※お彼岸の法話の抜粋です。

             安養寺住職 吉水秀樹




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