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こころについて

更新日:2018年11月27日


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協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。

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「こころについて」  この頃、こころについてつくづく思うことがあります。若い頃私は、本来こころは美しく清らかなものだろうと思っていました。これは日本仏教で当たり前のように言われていることの影響か、実際に検べたこともないのに仏性などという言葉もそのような意味だと理解していました。ところが、初期仏教のブッダの冥想に出会って、自分のこころを直接毎日観察するようになって、私のこころに対する考えは、根本的に変化しました。

 今、私はこころとは、美しいとか浄らかとは、ほど遠い扱い難い厄介なものだと思っています。こころは物質ではありませんが、身体の深奥のどこかにあって、それは繊細で壊れやすいガラス細工のようなものにたとえられます。そして、こころの本質は「我儘」です。融通がききにくく、聞きわけもなく、まんまに自己中心的です。

 話はかわりますが、Facebookなどで、私たちが自分の意見を日記に書きます。「いいね!」とあれば何でもないのですが、ときどき反対意見や違った見解を書いてくる人がいます。いろいろな意見があって当たり前と、理性ではもちろんそう考えるのですが、やはりこころはそのように思っていません。そのようなときに、自尊心が傷つきます。面白くない気に喰わないのです。これはガラス細工にヒビが入って、神経を傷つけている感じです。 「どうってことない!」と強がっても結構なダメージを肉体に受けています。これが重なって、それらと戦い、また我慢し続けていると本当に肉体から病んでいくと思います。若者でも年配の人でもFacebookから消えて行く人の心理には、そのような自尊心が少なからず影響していると思います。

 私は思うのですが、実際に面と向かって反対意見を言う人に対して、私はそれほど反応しません。それはその人の言葉、眼や表情からその人のこころの実際を感じ取ることができるので、もはや恐怖ではなくなるのです。しかし、ネット上の言葉は悪霊に取りつかれたかのように、正体の見えない不安や恐怖を持ちやすいです。

 このことに気づいていますか? ですから、Facebookなどのブログ日記もこころの未熟な人には大変なストレスになる要素があります。

 冥想でこころを育てるということは、こころの本質を変容させることのように思います。ガラス細工やガラス繊維のような神経細胞に、実際の感受や感情を走らせるのは危険です。そこで、そのガラス細工のようなこころを無味無臭の形をもたない柔らかな受容体に変容させます。感受は感受のままで、繊細な神経細胞を通過しないので漏電も発火もしません。そのときこころは、それらの感受のままで私というフィルターがありません。ありのままとか、放っておく、何もしないとはこのような実際で、けっして無智ではないと思います。


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