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ヴィパッサナー冥想 ―風を観る―




---------------------------------------------------- 協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。

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ヴィパッサナー冥想 ―風を観る―


 もし、あなたが日常生活で窓の外を見て「風か吹いている」と言っても誰もその言葉を疑うことはないと思います。しかし、あなたが冥想中に「風が吹いている」と考えたら、それは問題です。思考を捨てるのが冥想とか、「名称や命名」と「それそのもの」は異うということは、冥想者の誰もが一応認めていると思います。ヴィパッサナー冥想では、「音音音」など言葉は用いても、固有の名称を使わず対象そのものを思考なしで観察します。

 ところで、名称とそれそのものはどのくらい違うのでしょうか? よく、大きな違いを「月とスッポン」「天と地」などと表現しますが、名称とそのものは、月とスッポン以上に異います。かた方は存在しますが、かた方は存在すらしません。比べることもできないのです。名と色、ナーマnāmaとルーパrūpaの異いです。比べることもできないと了知することを、名色分離智慧とも言い、悟りの第一段階と言われています。

 この真理について、「風」とい名称と、「風そのもの」を題材にして考察してみます。  先日、台風のあくる朝坐る冥想をしていました。こころが落ち着いたころ風を感じ、「風が吹いている」と五蘊が働いて認識しました。次の瞬間に、これは危ない、妄想だと思いました。風は名称であり、知識や記憶であって過去のものです。名称が働くと、ありのままからは遠く離れてしまいます。「風」という言葉はなんとつまらない単語でしょう。実際、そこにある風そのもの、風のクオリア(質感)はとんでもない、巨大なうねりをもった真実在です。風と呼んでいる対象を如実に観察してみました。

 まず、音に触れています。笹の葉や木の擦れ、落ち葉の舞う音が同時に何重にも重なっています。これらの音から、私が空間をつくります。2.3m.から、50m~1㎞ くらい、音から私の周りに圧倒的な時空が生まれます。また、耳では音だけでなく耳のまわりの空気が動いて気圧の変化を感じ、私を取り巻く空間じたいが生きものようにうねり動いています。耳識だけでも、音と上下左右の空間と気圧…など、とんでもないクオリア(世界)をつくっています。  音の他に、耳や首筋に触れる空気が流れていて温度も変化しています。風が運ぶ空気には微細な湿り気や植物の香りが混じっています。これらが、刻々と変化しながら触れて、私がつくった時空の中で、音・気圧・温度・香り・光・重さ…などが変化する質感を「風」と呼んでいます。「地」や「水・火・風」のエネルギーを部分的に直観します。

 このように変化する感受から、認識が生まれてそれを「風」と呼んでいます。風という言葉を使わないと、このような刻々と変化する感受の世界が無限に広がります。毎日同じように、同じ場所で、坐る冥想をするので毎日同じという錯覚が起こります。しかし、同じ瞬間は二度とありません。風も常に新しく、同じ風は二度とありません。「風」も「私」も同じです。同じ風が二度とないように、同じ私は二度とありません。真実は私も今死んで、次の瞬間に生まれるということのようです。

追記  冥想で問題にするのは、生の全体性です。たとえば、「風」一つをとってみても、風は私の生の全体、世界から切り離せるものではありません。 私たちが何気なく言う「風が吹いている。」という言葉。「風」は分別であって、生の全体性から「風」だけを切り離して、あたかも「風」という実体があるかのように錯覚妄想して、そこから見解をつくり記憶化知識化します。なんとつまらない作業でしょうか、その繰り返しは何とつまらない人生でしょうか。風ですら、私の人生の一部であり、世界の一部です。風を観ることは、けっきょく自分を観ることです。世界を観ることになります。このとき気がつけば小さな自我は消えて、安らぎや美しさ、生の全体性があると思います。

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