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協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。
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『出家について・阿羅漢について』 ※法句経91からの少し難しい話です。
最初に、法句経 第七章は、阿羅漢の章です。 この章では、阿羅漢(解脱して涅槃にいる者)の生き方が説かれてあると理解して読まれるとさらに理解が深まると思います。
90. すでに出離の道を終え、すべてから解脱し、あらゆる束縛のない者に、苦しみは存在しない。
91. 家を出た気づきのある者は、家を楽しまない。白鳥が池を立ち去るように、彼らはあの家、この家、さまざまな執着を捨てる。
92. 財を蓄えることなく、食の適切を知り、解脱した彼らの存在が空にして、そして、対象をあるとしないなら、彼らの行き先(趣:死後に赴く所)は、空を飛ぶ鳥たちに足跡が無いように、捉えようがない。
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出家とは、家を出て仏門に入ることです。似た言葉に「遁世」トンセイがあり、遁世は俗世間から離れて隠居隠遁することです。 大きな問題点は、お坊さんが出家しているのかどうか? あるいは出家体験があるかどうか? ということです。一時出家という言葉もありますが、一時的であっても「捨てた」経験のある者とない者では、人生の意味合いも、仏教者としての深さにも違いがあるということです。私は本来の意味でも出家者ではありませんが、「家を捨てた」「寺を捨てた」「仕事を捨てた」これらの経験はあります。その経験が私の仏教者としての中核になっていると思っています。
パーリ語では、pabbajati が出家する・遁世するという動詞で、pabbajana が出家・遁世です。法句経91では、uyyuñjati という言葉が使われてあり、それは出発する・家を出るという意味です。よくわからないのですが整理すると。
Pabbajana パバッジャナ が、仏教用語としての出家であり。 Uyyuñjati ウッユンジャティが、出発する・家を出るという普通の言葉のようです。
法句経91の一偈目は、 Uyyuñjanti satīmanto, na nikete ramanti te; 【家を出る/気づきのある / ない/家(より所)/ 楽しむ】とあり、「家を出た気づきのある者は、家を楽しまない。」となります。
インド文化では、古代から「四住期」という考えがあります。これは簡単に説明すると人生を四つの時期に分けて、 (1)学生期 先生のもとで学ぶ。 (2)家住期 家にあって家庭をつくる。 (3)林棲期 森に隠棲して修行する。 (4)遊行期 一定の住所をもたず乞食遊行する。
古来から出家・乞食生活という文化的な背景があるということです。また、「家」は、色々な単語がありますが、niketaは、= ālaya と辞書にもあり、「家」が「より所」であって、それは「もろもろの執着」を意味します。唯識学者に叱られそうですが、大乗仏教用語の阿頼耶識とは、こころの中核のことで、それは結局執着に過ぎないのかも知れません。無我が真理なら、あるとしている「私」や「真我」は妄想概念なので、私にはつじつまが合っています。 良くも悪くも、日本のお坊さんは家を出ていないので、そのことで色々な問題が起こります。少なくとも、出家本来の意味だけは理解して、日本のお坊さんとしての自覚を持って行動するべきだと思います。
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