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「情熱」と「欲望」 「中道」と「気づき」

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📷📷📷+9吉水 秀樹

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協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。

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「情熱」と「欲望」 「中道」と「気づき」  このところ情熱について、いろいろ学んでいました。若い頃、情熱的に活躍していた人が年老いて生気を失い哀れに消えてゆく姿があります。このような情熱は何にしても動機のある情熱です。私が今問題にしている情熱とは、恋愛感情や仕事や芸術、趣味に対して熱心であることではありません。人や概念や何らかの理想に対して情熱があり、金持ちや有名人であることは矛盾や葛藤、努力が伴います。  そこで私が問題にしているのは、何の動機も持たない情熱、内に捨棄を宿した情熱、名も無い人の持っている情熱です。情熱に動機があるとそれは情欲になります。

 ところで、とても皮肉な表現ですが、ある意味で聖職者の着ている法衣は、欲望から自由でありたいという欲望を象徴しています。こころに生じた欲望に対して、ほとんどの宗教は禁欲こそがこころの平安へ導く一筋の道のように説きます。しかし、その禁欲自体が欲望から自由でありたいという欲望に違いありません。さて、この事実を見た私はどうするべきなのでしょうか?

 「気づき」という道があります。これは欲望を否定するのでなく、欲望を理解するという意味です。美しいものに出会い知覚が生じます。接触があり、感覚が生まれ、その継続を望みます。欲望はこのように生まれます。欲望は葛藤を生み出します。人は葛藤を望みません。欲望の中に恐怖が潜んでいることが見えるでしょうか?   そこで多くの人は欲望を取り除こうと努力します。この戦いに終わりはありません。しかし、もしあなたがこの欲望を消し去ろうとせず、いい欲望、悪い欲望と分別せず、こちらを残してあちらを捨てようとせず、一切の言葉、時間を交えることなく欲望を理解する。  あなたの精神が、拒絶も非難もなく、欲望の生起の全容をありのままに見ているなら、そのときはじめて静かな精神の祝福があるでしょう。

 欲望はあいかわらずやって来ますが、それはもはや影響力をもちません。恐怖がなくなります。あなたのこころには一定の反応はあります。それがなければあなたは死んでいます。しかし、それにたいして、なにもすることはないのです。生と滅があり、因果法則で自ら消滅します。  快楽を追い求めるのでもなく、欲望を抑圧したり歪めたりするのでもない、このような道を「中道」といい、「気づき」の道です。しかして、出発点がゴールなのだと学びました。

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