top of page

『比べる』について  その一

📷📷


+++++++++++++++++++++++++++++++++

協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。

++++++++++++++++++++++++++++++++++


『比べる』について  その一

 去年から、「比べる」が気になって、継続して冥想し学び検べていました。ようやく無明の闇から光が見えてきたので、私が学んだことをレポートします。

 仏教に入門して、道徳を知るようになると「嘘」や「盗み」は悪行為であって、それをしていては幸福になれないことを理解します。そこで、「嘘はつかない」「与えられていない物は盗らない」と自分の生き方を変えることができます。これはある意味簡単なことです。  しかし、「比べる」ことは、知識の上で煩悩であると理解しても、簡単に止めることはできません。「比べる」ことを止めることは至難の業です。仏教では、「比べる」ことは、悟りの初歩段階では消えることがなく、阿羅漢になってようやく消滅するとされています。

 私が学んだ大切なことは、 ◎「比べる」を知ること、理解すること、比べていることに気づくことです。「比べる」を止めることは私には未だ敵いません。しかし、気づくことはできるのです。

具体的に検べるのに、次のように分けて考えて行きました。  ① 比べるとはどういうことなのか? ② なぜ比べるのか? ③ 比べることで幸福になっているのか?

①「比べる」とはどういうことなのか? 「比べる」と一言でいっても中味はいろいろあります。

A.見える対象を比べる。先日頼まれてパーティで使うアボガドを買いに行きました。選ばずに買うと傷んだ物を買って後で使えない時があります。手に取って一つ一つ、見比べ、硬さを調べます。このように目前にある対象を「比べる」ことは気づくことも難しくありません。

B.見えない対象を比べる。このような表現が正しいかわかりませんが、たとえば朝に坐る冥想をしたとします。冥想が終わった後に、今日の冥想は〇〇だったと評価する。これも「比べる」ことです。おそらく過去の経験や知識と比べているのでしょう。このような例は、比べていることに気づくのも少々難しいです。目の前に対象があるわけではないし、片方は対象として存在もしません。

※そもそも、AもBもありもしない対象を「ある」として、比べているので難しいのです。

 最初に比べることは、煩悩と言いましたが、仏教ではこの「比べる」ことを『慢』まんmāna マーナと呼んでいます。その本来の意味は、「比べる」ではなく。「計る」ことです。  私が「比べる」と題して問題にしていることは、「慢」mānaマーナという根本煩悩であり、それは、「計ること」「量ること」「比較すること」「区別すること」「分別すること」です。  これらは普段から無意識的に当たり前としてやっていることであり、生きるためには不可欠な、良いことと思っているので厄介なのです。

Bの例など、冥想実践者でもよくやってしまう不善行為です。自分の冥想を自分で計るのは愚かな行為です。

 そもそも、アビダンマでは、不善心所が14項目あります。それが、「欲」「怒り」「無智」のグループに分けてあります。「慢」mānaマーナは、不善心所の「欲」のグループに属します。

「欲」のグループには、 ① 「貪」とんlobhaローバ 「まあいい」「いい感じと受け入れる」こと

② 「見」けんdiṭṭhi デッティ 「見解そのもの」「あるとすること」「見たことは正しい」

③ 「慢」まんmānaマーナ  「計る」「比べる」 以上の三つがあります。

 二番目の「見」は「見解」のことです。間違った見解が煩悩と言っているのではなく、何か対象が「ある」とするこころの働きそのものことです。だから、この「見」、見解がすべて邪見であると「正しいとしていること」だと見破ることは、少し難しいです。 しかし、「慢」まんほど、厄介ではありません。「見」は悟りの最初の段階で消えるとされていますし、「見」に対して日常的に気づくことも、「慢」mānaマーナの克服に比べたら難しいことではありません。


閲覧数:28回
bottom of page