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4月7日 瞑想日記 『実際にあった事』 ――幼子の死について――

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協会の記事ではありません。

 サークル仲間の所感です。  

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4月7日 瞑想日記 『実際にあった事』 ――幼子の死について――

 2月に電話で葬儀の依頼があり、新規の檀家さんができました。通夜と初七日で法話をして、満中陰の相談をしました。最初は49日だけ予約されたのですが、後から電話があり、実に七日七日の中陰のすべてお参りすることになりました。

 この頃は初七日の次は、満中陰(49日)というパターンが9割なのに、初めての檀家が中陰のすべてを勤められることは稀です。

 なぜ、そのように決められたのかと後で尋ねたら、嬉しいことに、通夜と初七日の私の法話が何か琴線に触れたようで、もっと仏教に触れたい気持ちになったということでした。

 このことを私が知ったのは、先日の六七日のことでした。

 会話の中でわかったのですが、中陰の法話の中で私が、「幼い子どもの死」について説いたことが更に大きな発見だったと語られました。

 その内容を要約します。

 長年お世話になった親を亡くすことは悲しいことです。私も経験しました。しかし、人が老いて亡くなることは当然だから、49日が過ぎた頃には、私の悲しみは、育ててもらった喜びや感謝の気持ちに浄化されていました。今では思い返すこともほとんどありません。

 しかし、「親をして子を忘れしむるは難し」と云うように、可愛い子どもを失った親の悲しみは根が深く、たまに、17回忌や25回忌の法事なのに涙されるお母さんもおられます。

 その悲しみを喜びに浄化することは難しく、こころの置きどころが見つからないのです。

私はそんなときに、大人は長く生きた分だけ、業も深く、死ぬことも苦しみを伴う人が少なくない。しかし、幼い子どもは今生での業が少なく、さまざまな行為の結果(業)はあっても、幼い子どもには現実に悪業が少ない、だから幼い子どもが死ぬことは、悲しいことには違いありませんが、亡くなった本人はすでに次の世に転生してて、死ぬことの苦しみも大人に比べたらはるかに軽い。おそらくその子どもは決して、三悪趣には生まれていないと思います… ですから、子どもさんのことは如来の慈悲にお任せして、自分が残された生を幸せにまっとうすることに専念してください… 

 とこのような法話をしました。業の法話は簡単ではありませんし、私も若いころはこのような法話はできませんでした。しかし、今では確信とまでは行かなくとも、おおむね、このような辛辣な話を淡々と真正面から話すことができます。また、それは真実から大きく逸れてはいないと思います。

 それ以上は尋ねていませんが、彼女かその周辺に、幼い子ども亡くした事例があり、その悲しみのこころの置きどころが見つからないままでおられたように思います。

 実はこの話は輪廻している世界という広い視野から見た自業自得の一部なのですが、難しいので深入りはせず、用語は使わずに淡々と話します。

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