2020年8月26日2 分

相応部 55-40  Nandiyasakkasuttaṃ ナンディヤ釈子経

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協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。

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8月26日 冥想日記 
 
相応部 55-40  Nandiyasakkasuttaṃ ナンディヤ釈子経 の経典解説を聞きました。
 
ナンディヤの質問の要点は「預流果も放逸に陥るのか?」です。 結論はYesです。
 
 預流果になっても、怠けたらダメってことのようです。
 
 最初に長老は、仏道とは、一言で言うなら不放逸である。仏道=不放逸、仏道の心臓が「不放逸」と説かれました。
 
 預流果は、ブッダと彼の教えにゆるがない確信を得た人のことなのですが、その預流果でも放逸になるとブッダは説いています。その核心の一偈は以下です。
 
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So  tena  buddhe  aveccappasādena  santuṭṭho na
 
彼 それ  ブッダ  確かな浄信   満足した ない
 
uttari vāyamati  divā pavivekāya,  rattiṃ paṭisallānāya
 
上の 努力    日中 遠離   夜   独坐
 
『しかし、彼はそのブッダに対する確かな浄信に満足してしまい、昼に独り遠離すること、夜に独り坐る努力がありません。』
 
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 以前、預流果は怠けもの…? というテーマの話を聞いたことがありますが、その根拠になる経典です。
 
  預流果の放逸
 
・預流果の人は普通に在家生活しているのです。
 
・俗世間では、ものごとは存在する(無常でなく常住)の立場です。
 
・貪瞋痴の衝動で生きています。預流果にもまだ、欲・怒りなどの煩悩が残っています。
 
・内緒で、気づきを実践して無常・苦・無我を確認しなければなりません。
 
・皆の流れに乗ってしまうと皆と同じく悩み、苦しみ、失望などを経験します。
 
・真理は現れませんという言葉の意味です。
 
 預流果はまだ、阿羅漢ではないので、たゆまぬ努力「不放逸」に住するかどうかがポイントのようです。朝、冥想し、昼も気づきを保ち、夜も独りで坐す努力があれば、阿羅漢に至るということなのでしょうか? 詳しくは、長老の説法をお聞きください。
 
https://www.youtube.com/watch?v=DTGEq_KJTPE&t=2268s

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