仏壇終いに想う―捨てることは喜び―

最終更新: 2018年9月4日

 

  協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。


 仏壇終いに想う  ―捨てることは喜び―


 今月も仏壇終いがありました。この社会現象の勢いは止まりません。かつては活気のある本家でしたが、後を継ぐ者がいなくなり、施設から来たおじいさんとその娘たちの依頼でした。家が解体される前前日のことで、空っぽになった家に仏壇だけが残っていました。なんとなく、寂しさや虚しさが漂っていました。  撥遣式の説明をし、読経して宣疏を読み上げ如法に行いました。 無常偈を説いて、すべてが壊れゆくものである真理と、仏壇がなくなっても慈しみのこころを育て、その功徳をご先祖さんはじめ、すべての生きとし生けるものへ廻向することの大切さを話しました。お二人の目から涙が流れていました。

 私はこのような仏壇終いの儀式は無意味とは思っていません。しかし、なかには腫れ物に障るかのように考えて、罰が当たらないように。祟りがないように。恐怖心から儀式を望まれる場合もあります。どうして、自分の家の仏壇に祭られている如来さまやご先祖さまが罰を当てるなどと言うことがあるのでしょうか。気をつけないとこのような儀礼には、信仰の名の裏に強迫観念が見え隠れしています。それは遠離の仏道とは正反対の方向に人を導いてしまいます。

 本来、仏道は明るい世界です。”明るく生まれて” “明るく生きて” “明るく死んでいく”のが仏道です。「捨てる・手放す」行為は、仏道の中核です。たとえ今回のような仏壇であっても、お墓であっても、捨てること自体に「喜び」を見出し、「あっ解放された」「スッキリした」と、捨てる時は明るく捨てるのが仏道です。何はともあれ、導師である、和尚さんがそのことを誰より知っていないと話になりません。






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