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『セデック・バレ』と『戦士経』―― 「首狩り宗教」から魂を解き放つ

更新日:2018年11月20日



『セデック・バレ』と『戦士経』―― 「首狩り宗教」から魂を解き放つ

パーリ三蔵読破への道 連載第十三回 佐藤哲朗

●セデック・バレ(真の人)の条件

先日、『セデック・バレ』(ウェイ・ダーション監督)という台湾映画を観ました。日本統治下にあった一九三〇年の台湾で、高地先住民族であるセデック族の戦士と日本軍が衝突した霧社事件をテーマにした歴史長編です。第一部「太陽旗」、第二部「虹の橋」あわせて四時間半もの作品の中では、勇猛な首狩り族として恐れられたセデック族の文化や宗教について詳細に紹介されています。

(映画の中では)セデック族の男にとって、部族の狩り場を防衛し、または獲得するために、敵部族を殺しその首を狩ることは「真の人(セデック・バレ)」となるための条件とされていました。みごと敵を殺して首を狩った男は、顔にその証となる刺青を入れられます。この通過儀礼を経ずに死んだセデック族の男は、「虹の橋」の向こうにある先祖の住まう永遠の狩り場に渡ることができず、暗い谷底をさまようことになるのです。

日本統治下では、当然のことながらセデック族の首狩り習慣は禁止されました。時が経つにつれ、刺青のある「真の人」はほとんど消え去ってしまう。この事態は民族に深刻なアイデンティティの危機をもたらします。セデック族の若者が「真の人」になれないままで死んだら、虹の橋の向こうの永遠の狩り場にいけない。一般的な言い方をするならば、天国の門をくぐるための条件を満たせないのです。

日本統治下での当局との摩擦や対立など、霧社事件には様々な原因があったにせよ、セデック族の宗教的な危機感もその一つにあったのだと理解しました。本作の主人公、セデックの頭目モーナ・ルダオは、こう叫んで日本人に対する蜂起を呼びかけるのです。「よく聞け、セデックの男たちよ! 敵の首を狩れ。魂を血で洗い清め、虹を渡り、永遠の狩り場へ行こう!」

●パーリ経典『戦士経』

民族のテリトリーを守り拡張するために、勇ましく戦って敵を殺し首を狩る。その行為がある種の「宗教的救済」にも直結している。このように戦闘と救済を結びつけた信仰の形は、じつは人間社会に現れた「宗教」に普遍的に認められるのではないかと思います。

映画『セデック・バレ』を、私は一編の「宗教映画」として鑑賞したのでした。文明と野蛮の対立というよりは、人類普遍の「宗教をめぐる悲劇」として。そしてそこに描かれたセデック族の宗教観から、相応部経典に記録された次のエピソードを思い出しました。戦士経(Yodhājīvasuttaṃ)。約二千六百年前の古代インドで、武士(戦士)の長がお釈迦様を尋ねた時の対話を記録した短い経典です。スマナサーラ長老の訳を引いて、内容をご紹介します。

あるとき、武士の長(おさ)がお釈迦さまを訪ねて来ました。 お釈迦さまのそばに座った武士の長は、世尊にこう尋ねました。 「偉大なる先生、拙者は歴代の将軍であった指導者たちからこのように教わったことがあります。曰く、『およそ戦に臨み、死に物狂いに戦場で力を振るい奮闘した武士が、敵に撃ち殺されたならば、彼のもののふは、身体が壊れ命が尽きたのち、サランジタ天(という天界)に生まれ変わるのだ』と。偉大なる先生にあられましては、この教えについてどうお考えですか」と。 お釈迦さまは、「長よ、止めなさい。そういうことを私に問うものではない」と言って答えませんでした。 それでも調子にのった武士の長は、再び、お釈迦さまに同じことを尋ねました。お釈迦さまはまたその問いを退けました。武士集落の長は、それでも三たび、お釈迦さまに尋ねました。 「偉大なる先生、拙者は歴代の将軍であった指導者たちからこのように教わったことがあります。曰く、『およそ戦に臨み、死に物狂いに戦場で力を振るい奮闘した武士が、敵に撃ち殺されたならば、彼のもののふは、身体が壊れ命が尽きたのち、サランジタ天に生まれ変わるのだ』と。偉大なる先生にあられましては、この教えについてどうお考えですか」と。 お釈迦さまは仰いました。「長よ、私は『止めなさい。そういうことを私に問うものではない』と言ってそなたの質問を退けた。しかし、そなたはやめてくれない。だから、問いに答えよう」と。 「長よ、およそ戦に臨み、死に物狂いに戦場で力を振るい奮闘する武士のこころは抜き難い悪意に捉われている。『これら(敵)の者どもは武器で討たれてしまえ、縛られてしまえ、切られてしまえ、亡きものとされてしまえ、跡形もなく滅ぼされてしまえ』という怖ろしい心理状態でいる。そのような武士が戦に臨み、死に物狂いに戦場で力を振るい奮闘し、敵に撃ち殺されたならばどうなるか。彼のもののふは、身体が壊れ命が尽きたのち、サラージタという名の地獄に堕ちる。 もし汝らが『およそ戦に臨み、死に物狂いに戦場で力を振るい奮闘した武士たちが、敵に撃ち殺されたならば、彼のもののふは、身体が壊れ命が尽きたのち、サランジタ天という天界に生まれ変わるのだ』という教えを信じているなら、これは邪見である。武士の長よ、邪見をもつ人の来世にはふたとおりある。それは地獄、または畜生であると、私は説いている」と。 このようにお釈迦さまがおっしゃったとき、武士の長は、号泣しました。 「私は『長よ、止めなさい。そういうことを私に問うものではない』と言ってそなたの質問を(二度も)退けたのだよ」と、お釈迦さまがおっしゃると、泣いていた長はこう述べました。 「偉大なる先生、拙者は世尊がそのようにおっしゃったことを悲しんで泣いたのではありません。されど偉大なる先生、拙者は歴代の将軍であった指導者たちのために、『およそ戦に臨み、死に物狂いに戦場で力を振るい奮闘した武士が、敵に撃ち殺されたならば、彼のもののふは、身体が壊れ命が尽きたのち、サランジタ天に生まれ変わるのだ』と長いあいだ騙され、欺かれ、たぶらかされていた、そのことを思って泣いたのです」と。

(S42-3,相応部六処編第八聚落主相応三戦士。訳文はスマナサーラ『死後はどうなるの?』角川文庫、142-154p)

この後、武士の長は釈尊に帰依して在家仏教徒になるのです。

●「首狩り宗教」の普遍性

セデック族と同じく、この経典に出てくる武士の宗教も、勇ましく敵と闘い敵を殺すことが宗教的な救済と結び付けられています。インド文化ということでいえばヒンドゥー教の聖典である『バガヴァッド・ギーター』を連想させます。マハトマ・ガンディーも愛読したギーターは、実は戦争による救済を説いた宗教書です。古代インドを二分する大戦争のさなか、親族との不毛な戦争に疑問をいだいたアルジュナ王子に対して、クリシュナ=ヴィシュヌ神の化身は、和平ではなく、なんと戦争を続けるように説得を試みます。宗教叙事詩『マハー・バーラタ』に収められたその対話が『バガヴァッド・ギーター』として独立の聖典のように扱われるようになったのです。ギーターのなかで、クリシュナは、自我を捨て武士として生まれ持った義務(ダルマ)を遂行することこそが救済であると説き、アルジュナを再び親族との戦争に駆り立てるのです。その主張はお釈迦様と反対です。

もちろんこの構造はインドの宗教だけに限りません。ジハードに出征し殉教することで天国に迎えられると説くイスラム教、十字軍に代表される聖戦を引き起こし世界中で侵略と虐殺を繰り返したキリスト教など、セデック族よりももっと洗練された世界規模の「首狩り宗教」に洗脳されていない人類を探すほうが難しいかもしれません。

宗教に無関心といわれる日本人も例外ではありません。霧社事件ではセデック族を弾圧する側に回った近代日本でも、天皇に身を捧げ戦争に出征して死んだものを護国の神として靖国神社に祀る、別の種類の「首狩り宗教」が広く信仰されていたのです。第二次世界大戦当時は、日本の仏教者たちも「首狩り宗教」の宣伝と正当化に明け暮れていました。いわゆる戦時教学です。浄土真宗で「阿弥陀如来と天皇は同体であり天皇のために戦死すれば極楽往生できる」と門徒に吹き込んでいたことは、比較的よく知られています。

ですので、「首狩り救済論」というのは、人類が発明した「宗教」というシステムに通底するのではないかと思います。現在ある世界宗教もまた「首狩り宗教」の末裔であり、その特徴を濃厚に引き継いでいるのです。

●悪業と邪見

『戦士経』を読む際に注意していただきたいのは、

(1) 「長よ、およそ戦に臨み、死に物狂いに戦場で力を振るい奮闘する武士のこころは抜き難い悪意に捉われている。『これら(敵)の者どもは武器で討たれてしまえ、縛られてしまえ、切られてしまえ、亡きものとされてしまえ、跡形もなく滅ぼされてしまえ』という怖ろしい心理状態でいる。そのような武士が戦に臨み、死に物狂いに戦場で力を振るい奮闘し、敵に撃ち殺されたならばどうなるか。彼のもののふは、身体が壊れ命が尽きたのち、サラージタという名の地獄に堕ちる。 (2) もし汝らが『およそ戦に臨み、死に物狂いに戦場で力を振るい奮闘した武士たちが、敵に撃ち殺されたならば、彼のもののふは、身体が壊れ命が尽きたのち、サランジタ天という天界に生まれ変わるのだ』という教えを信じているなら、これは邪見である。武士の長よ、邪見をもつ人の来世にはふたとおりある。それは地獄、または畜生であると、私は説いている」

というくだりの解釈です。

(1) は輪廻する場合、亡くなる直前の心の状態が重要である、という仏教の業の教えから説かれています。私たちが悪行為をする。それで不幸になることは自業自得です。行為の結果がいつ現れるか、ということには複雑な理論がありますが、もし悪意に覆われたこころで死んでしまったならば、その直後に生まれ変わるのですから、当然、悪趣に結生してしまう、というのはわかりやすい話です。

(2) は邪見の問題です。宗教的な理由があれば、悪行為をしても結果として天国にいけるという教えを信じることは、因果法則を撥無する極端な邪見です。私たちの人生にとって、本当に問題なのは個々の善悪行為よりも、その背後にある邪見なのです。人類が連綿と受け継いできた「首狩り宗教」は、もっともらしい理屈をつけて邪見を強化します。神のために、魂の浄化のために、民族のために、部族のために、勇ましく戦って死ねば天国に、先祖の待つ永遠の狩り場にいけると信じることは、地獄・畜生(悪趣)への片道切符を握りしめることと同じなのです。決して聖者ではない私たちは、しばしば罪を犯してしまいます。巡りあわせで人を殺めることだって、あり得ないとは言えないでしょう。しかし、「殺人などの悪行為をしても善い結果になる、神に祝福される、天国に誘われる」といった邪見、宗教的な刷り込み・洗脳による善悪基準の撹乱に引っかかったら、もう取り返しがつきません。死後までも不幸が確定してしまいます。ですから、その他の罪よりも、邪見には、より一層気をつけなくてはいけないのです。

●救済への疑問とタブー

聖戦を讃え、戦死者に死後の救済を約束する宗教の教えは、決して福音ではなく、人類を苦しみの悪循環に縛り付ける「呪い」そのもののように思えます。しかし、その呪いこそが、様々なエスニック集団が過酷な生存競争を勝ち抜くための原動力になったのです。

お釈迦様は人類が「首狩り宗教」の虜になっているシビアな現実をよくご存知だったのでしょう。(もしかすると、武装農耕民だった釈迦族にも、戦士の死を聖化するような信仰があったかもしれません。)

「首狩り宗教」は共同体メンバーの団結を高め、共同体への最大限の献身を引き出すために便利な観念ツールです。赤ん坊としてその共同体に生まれ落ちた瞬間から、あらゆる文化的な装置を用いて徹底的に刷り込まれていきます。戦士たる男だけではなく、全員が共犯関係にされます。セデック族の宗教でいえば、首狩りをして一人前になった男に刺青を入れるのは女の仕事です。火を守り機を織る女達の仕事は、戦にでかける男達の仕事と一対になっていて、それ自体にも死後の救済を約束する宗教的な意義づけがされている。すべては共同体の維持と繁栄=成員個々の幸福と死後の安寧のために最適化されたシステムなのです。それに疑問を抱く人は、稀であるはずです。「首狩り宗教」に疑問を持つひとが増えれば、そのシステム自体が崩壊してしまいますから。

武士の長はお釈迦様に向かって、空気も読まずに三回も、自分たちの宗教の救済論について質問しました。おそらく彼は、伝統宗教の「呪い」に違和感を抱いていた数少ない一人だったのでしょう。自分がうすうすと感じていた「首狩り宗教」への疑念。お釈迦様にはっきりと邪見であると教えられて、彼はその場で泣き崩れたのです。文学的な表現をするならば、その時「彼の魂は解き放たれた」のです。

しかし「共同体の維持と繁栄=成員個々の幸福と死後の安寧のために最適化されたシステム」である首狩り宗教に疑念を抱くことは、共同体に依存して生きる人々にとっては大きなタブーです。外部の人間をそれを行えば、感情的な反発や憎悪を呼びかねません。お釈迦様のように社会的に尊敬される聖者の口から、「首狩り宗教は邪見であり、死後は地獄か畜生」と断言されたら、アノミー状態に陥って発狂してしまう可能性もあるでしょう。ですから釈尊も、三度問われてようやく答えたのです。

この『戦士経』は個人的にはとても重要な経典だと思うのですが、日本では知名度が高いとは言えません。『南伝大蔵経』(一六巻上)に入っている他は前述のスマナサーラ長老の著作以外では現代語訳が見当たらず、最近復刊された増谷文雄『阿含経典』全三巻(ちくま学芸文庫)でも採録から漏れています。管見では中村元『仏典のことば―現代に呼びかける知慧』(岩波現代文庫)で紹介されている程度かと思います。靖国神社問題に代表されるように、大日本帝国が築き上げた「首狩り宗教」の遺産を持て余したまま立ちすくむ、日本の微妙な空気を反映しているのかもしれません。

●附論・集団業としての戦争

ここまでの議論で明白ですが、パーリ経典では、「戦争で勇敢に戦って敵を殺せば天国にいける」というような教えを「邪見」と断じています。戦争で英雄になって天国に逝くことはありえないにせよ、戦争という集団による大量殺戮・殺生の罪は、業論的にどう考えるべきなのでしょうか? 戦場においては全員が敵を殺すわけではありません。全員が鉄砲を持っていたとしても、射撃が下手で当たらない人もいれば、敵を目前にすると恐ろしくて引き金を引けなくなる人も多いでしょう。大集団で遂行される戦争において、個々の役割・ふるまいは千差万別です。

自分の能力の範囲でパーリ聖典を調べてみたのですが、釈迦族の滅亡に関するいくつかのジャータカ物語を除けば、戦争における集団の業について論じた文献はみつかりませんでした。そのかわり、偶然読んだ『阿毘達磨倶舎論』で、戦争など集団による殺生の罪について論じられた箇所を発見しました。世親により編纂された『阿毘達磨倶舎論(倶舎論)』は、北伝仏教で仏教の基礎学の教科書として重用されています。パーリ経典の伝統とは異なる部派の文献ですし、この連載の趣旨とは外れますが、この問題を「通仏教的」に考える材料にしたいので例外として取り上げたいと思います。

若【も】し多人有り。集りて軍衆【ぐんしゅ】を為し、怨敵を殺さんと欲し、或は獣を猟する等は、中に於いて、随って一【ひと】りの殺生すること有らん時、何人【なんびと】か殺生の業道を成ずることを得るや。 頌に曰く、 軍等の若し事を同じくするは、皆成ずること作者【さしゃ】の如し。 論じて曰く、軍等の中に於いて、若し随って一り殺生事を作【なさ】んこと有らば、自ら作す者の如く、一切皆殺生の業道を成ず。彼は、同じく許して一事を為すに由るが故なり。一事を為すに展転して相教ふるが如し。故に一り殺生するときは、餘も皆罪を得。 若し他の力の、逼【せま】りて此中【このなか】に入ること有らんときも、因りて即ち同心せば、亦【また】殺罪を成ず。 唯【ただ】若し誓【ちかい】を立てて、自ら要して自【おのれ】の命を救ふ縁にも亦殺を行ぜざるもの有るをば、除く。他の力に由りて逼【せま】られて、此中に在りと雖【いえど】も、而も殺心無きが故に殺罪無ければなり。

(阿毘達磨倶舎論巻第十六 分別業品第四之四 読み下しは国訳大蔵経に拠った。)

意訳すると次のようになるでしょうか?

人々が集団(軍隊)を作って、敵を殺そうとしたり、獣を撃ち取ろうとしたりして、集団の誰か一人が殺生した場合、誰が殺生の業を得るのでしょうか? 結論はこうです。 「軍隊で軍事行動を行った場合、全員が加害者です。」 以下、説明します。軍隊のなかで誰か一人が殺人をしたとしても、それは構成員の集団的な意志で合意ずく行った殺人であって、殺すに至る過程は連係プレーで相手を追い込んでいるわけです。だから、殺した本人だけじゃなくて軍隊全員に殺生の罪があることになります。 たとえ徴兵されたりして、無理やり軍隊に入れられた場合でも、軍隊で洗脳されて「敵を殺す」という意思を共有していたら、やはり殺生の罪になります。 ただし例外もあります。「たとえ自分の命を守るためであっても絶対に人を殺さないぞ」と、固く誓いを立てている場合です。それなら無理やり徴兵されて軍隊に入れられたとしても、殺そうという気持ちはさらさらないのだから、殺生の罪は被りません。

戦争協力や徴兵への対処という、現代の仏教徒でも悩んでしまいそうな問題に、『倶舎論』はそれなりの答えを出していると思います。あるいは実際に徴兵されて戦場に赴く在家信者さんから相談を受けたお坊さんが、一生懸命真摯に考えた答えかもしれません。

最近は日本仏教の宗派でも過去の戦争協力への「反省」が定着しつつあります。しかしそれも戦後の平和主義という主流思想に寄り添った結果ということもできます。戦争中は鬼畜米英を叫び、戦争が終わると平和と民主主義を叫ぶ、というのは仏教者に限らず大部分の日本の知識人のあり方でした。今後、尖閣諸島問題などがエスカレートし、対中強硬派がさらに力を得て戦時体制に移行したら、またぞろ「(不殺生など)声聞の持戒は菩薩の破戒」とか「殺すべき時は殺すのが大乗の不殺生戒」とか「一殺多生」とかデタラメなことを言い出す輩が必ず出てくるとは思います。

一応、『阿毘達磨倶舎論(倶舎論)』は大乗でも仏教の基礎学になっているテキストです。そこで明確に、戦争参加・戦争協力すれば、たとえ本人が直接手を下していなくても殺生の業になると説かれているのです。宗派を問わず、仏教徒であれば「戦争に加担してはいけない」と主張するための理論的な背骨になりうると思ったので、あえて紹介しました。ここには強いられて戦場に送られたとしても、自らは罪を犯さないための手段も書かれています。たとえ抗いきれない歴史の波に翻弄されようと、集団の業に巻き込まれることなく、仏祖の教えを汚さない生き方も、やりようによっては可能なのです。「心を守る」というたった一つの戒めによって。

●「首狩り宗教」への回帰

近い将来、日本がまた戦時体制に回帰したら、首狩り宗教の影響力・洗脳力がまた増す可能性があります。かつてのような黒塗りや焚書は不可能であるにしても、『戦士経』のような法門は、初期仏教の「反日」ぶりを象徴する教えとして、靖国の英霊を侮辱する夷狄の妄言として、権力者や大衆の憎悪の対象になるかもしれません。日本で第二の廃仏毀釈が起きるとすれば、その標的となるのは間違いなくパーリ三蔵に記録されたお釈迦様ご自身の教えでしょう。そうならないことを願いますが、先のことはわかりません。

世の中は無常で因縁により変化します。自分のこころも無常で因縁により変化します。いま初期仏教に惹かれている人々の心も変化して、敵を殺して救済を得ようとする「首狩り宗教」の熱烈な信者に豹変する可能性はあります。私も、あなたも、です。ですから、言論の自由があり、まだ社会が完全に狂気に覆い尽くされていないうちに、お釈迦様の教えを深く学んで、よく理解して、もう二度と首狩り宗教の網に絡め取られないように、後戻りしない聖なる智慧を開発することが肝心だと思います。余力のある人は、平和の終焉を一瞬でも先送りにするための努力に、加わってみるのも悪くないでしょう。

Sabbapāpassa akaraṇaṃ Kusalassa upasampadā Sacittapariyodapanaṃ Etaṃ buddhāna sāsanaṃ. (Dhp.183) 一切の悪行為をしないこと。 善に至ること。 自らの心を清めること。 これが諸仏の教誡です。 (法句経一八三偈)
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