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Dukkha と「たいくつ」 Dukkha Ⅱ

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協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。

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Dukkha と「たいくつ」


 さて、それが何であれ、みなさんが毎日一生懸命にしていること。仕事や家事、趣味や習い事、読書・勉強・瞑想…、SNSやFacebookは特にわかりやすいかも…

『なぜ、そうしているのでしょうか?』

 私は毎朝冥想し、経を読んで学び、僧侶としての仕事をこなし、畑の野菜やスイレンの世話をまじめにして暮らしています。私が「なぜ、そうしているのか?」「なぜ、動いているのか?」と自分に問いかけて出た最初の答えは、『たいくつと暇つぶし』です。

 たいくつと暇つぶしで、僧侶の仕事をしている、冥想していると聞かれたら、「何といい加減な人!」、と非難されるかもしれません。それでも、結局その答えが私には一番素直な答えで、しっくりと当てはまります。  本山で宗祖の御恩忌を盛大に勤めている人に、「あなたそれ暇つぶしでしょう」って言ったら叱られると思いますが、なんであのようなお祭りをするのでしょうか?

 もし本当に、お釈迦さまが説かれた、dukkhaドゥッカ【苦】の意味が、「生きることは苦である」「生きることは虚しい」「生きることにさしたる意味もない」「生は虚しい」ということなら、残された人生を、「たいくつと暇つぶし」として生きることは、楽に生きる秘訣とも言えるのではないでしょうか。

 すべての生命は、dukkhaという原動力があって、じっとしていられないTaṇhāタンハーがエネルギーで生きている。理由もなく「生存欲」と「非生存欲」に駆り立てられて動いている。

『なぜ、私は何もしないでただ坐るとい簡単なことができないのか?』この問いに真摯に答えて欲しいのです。禅宗の和尚さんには「只管打坐」を説く前に、「何で坐れないの?」とやさしく公案して欲しいのです。 「私には為すべき大切なことがあるのだ!」と答える人の無智は深いと思うのです。 「なにもしないと、たいくつで我慢できません」の方が事実に近いのではありませんか? Dukkhaには、たいくつという意味も含まれているのでしょうか?

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Dukkha Ⅱ


お釈迦さまは、”Dukkha ariya sacca.”と説かれました。これどういう意味なのでしょう?

真理の三相、『anicca無常・dukkha苦・anattan無我』のなかで、『ariya sacca聖なる真理』と書かれているのは、dukkhaだけだと不思議に思うのです。

さて、「幸福を感じたいなら、真っ先に何が必要か?」

 この問いに、初期仏教の長老は、dukkhaと答えられました。なるほど、私たちは美味しいものを食べて幸福感を得るために、うわさのレストランを探す、新鮮な素材を得て調理する、デパ地下をさまよい歩く…、など、いろいろな努力をしています。  これって、私たちにとっては当たり前のことですが、このことが無明、無智なる煩悩に支配されていることとは思っていないようです。

 そこで、長老が話されたのは、朝からよく働いてお昼はジュースくらいにとどめておいて夕刻、家に帰る。お腹はペコペコですが、夕食は摂らないでお茶だけを飲んでその日は眠る。あくる朝も何も食べないで水だけ飲む。そして、お昼に近くのコンビニに行って、オニギリとお茶を買い、帰って食べる。これをやってみてください。どれだけ、コンビニのおにぎりが美味しく感じることかと。二切れのタクワンや、インスタントの味噌汁などあれば、どれほどの幸福感を得られることかと。

「どれほど燃えますかね?」 

その後、夕食は高級レストランに行って、お腹が満腹になるまで食べて下さい。会計をせずに、もう一度美味しく食べた同じメニューを注文して、料理を自分の前に並べてもらって下さいと。もう見るのも嫌、匂いを嗅ぐのも嫌、と苦しみがあらわれるでしょうと。

さて、「美味しいは何処にある?」  この世に美味しい食べ物があるというのは、無明から生じた妄想です。空腹苦から満腹苦に振れる振り子のような人生は哀れです。

 Dukkhaがあって、はじめて幸福感が成り立ちます。Dukkhaから、すべてがはじまります。 Dukkha ariya sacca. 『苦は聖なる真理である』  dukkhaのお陰で生きているのでしょう?



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