『別時冥想と作法』

最終更新: 2018年12月21日




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協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。

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『別時冥想と作法』

 「別時冥想」って言葉は、私の作った言葉ではありません。昔から日本仏教では「別時念仏」など、「別時」という仏教用語があります。仏教者にとって、本来修行は生きることそのもので、四六時中こころを育てるのがブッダの冥想です。しかし、世俗に暮らす私たちは、出家比丘のそのような生き方がし難いので、時を区切ってこころを育てます。それが、別時の意味です。そうなので、皆さんが日々実践されている「歩く冥想」「坐る冥想」も座禅もみんな「別時冥想」なのです。  私はこの意識はとても大切だと考えています。それは、ダラダラナアナアになることを防ぎます。ですから、例え朝に10分間の冥想をするときでも、普段の生活と区切りをつけて、真剣に修します。私の実践例を紹介します。

 私は毎朝、最低でも60分の坐る冥想をしています。坐る前に、裏山を15分ほど歩く冥想をしてこころを整え、礼拝して「慈経」と「慈悲の言葉」を声にだして念じます。 坐る直前に手短に修行の確認をこころします。誰でもしていることですが、明確にします。  一番が時間のこと、何分の冥想に挑戦するかを確認します。二番目は、何があっても、放っておくこと。電話やチャイムが鳴っても放っておくことを念じます。この二番目の確認が大切です。ここで、「電話が鳴ったら対応する」「お客さんが来たら対応する」としてもかまいませんが、その分条件づけられた浅い冥想になってしまいます。

 私たちは世俗に暮らしているので、限度があります。しかし、この部分こそが私が「別時冥想」と呼んでいる肝心なところです。「厭離」や「離欲」というブッダの言葉が示すように、60分ダラダラ冥想するより、10分間、私は一切の世俗から離れるという覚悟をした方が、はるかに効果あります。冥想は決して長い時間坐るのがよいわけではありません。

 もし、今死んだとしたら、電話にでることは終わりです。雨が降っても洗濯物のことなどどうでもいいことです。ですから、本当の冥想は10分間の冥想なら、10分間死ぬという意味です。肉体的には死にませんが、精神的に死ぬことは可能です。 「真剣」とか「死ぬ気でやれ!」とか、いぜん紹介した仏教用語の【サムヴェーガ】=「このままではだめだ! と感じ、真理を求道する切迫したこころの状態」とは、この意です。  長老方が、「手放す」「放っておく」「何もしない」と仰るのも、精神的に死ぬこのことです。

   『冥想の作法』  坐ってからは、まず背筋を伸ばします。意識的に深く三回ほど呼吸をします。軽く頭を下げ再度姿勢を正し楽に坐ります。「待ちます」や「固定します」など好きな言葉を念じて、身体を動かさないと宣言します。そこからが、ヴィパッサナー冥想です。一回目の呼吸が観察されるのを明確に見ます。  このような作法が大切なのは、まさに日常・世俗から離れる、大切な入口になるからです。儀式・儀礼のようですが、自分で作法を決めて如法に修されることをお勧めします。

 いくら、「電話が鳴っても放っておく」と宣言しても、凡人がそう簡単にできることではありません。仮に電話が鳴って反応しても慌てずに、ありのままに淡々と今ここにある感情の動きを観察するのが、ヴィパッサナー冥想です。そうするうちに、本当に電話が鳴っても感情が出なくなって、いよいよ観察冥想に入ります。

 冥想・座禅と言っても、誘発された静寂、強制された静寂は、静寂ではありません。それは子どもを教室の後ろに立たせるようなものです。期待も努力も捨てて、すべてを放っておく、何もしないのが真の冥想だと思うのです。



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