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業と輪廻




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協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。

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業と輪廻

仏教で最も誤解されやすいテーマです。誤解される原因は常識的な自分の観念でこのような法則を理解しようとすることです。それは、「ヘビは邪悪な生き物である」と決めて、ヘビについて語るようなこと、空の写真だけを見て、宇宙を語るようなことです。

そこで、「自業自得」「善悪」という言葉の真意を理解することが真相の理解に役立つと思います。ブッダの言葉で、「自分のしたことと、しなかったことを問題にして、人のしたことと、しなかったことは問題にしてはならない。」という偈があります。自業自得の本質をよくあらわしています。人生の何時いかなる時でも、「人のしたことと、しなかったことを問題にはしない。」という生き方の安らぎと慈しみが理解されれば、人の不幸に対して冷淡な言葉を口にすることはなくなります。他者の不幸を眼にしたとき、何か自分のしてあげられることはあるか? 何もできないのなら、こころ静かに沈黙をたもって慈しみの眼差しで見守ることが最善です。 逆説的ですが、この生き方は他人事はなくなり、すべてが自分の問題になります。先日の悲惨な交通事故などのニュースを聞いて、被害者も加害者もすべてが私の問題になります。そうなると、軽はずみな批評批判の言葉は生まれません。

自我には善悪を語るほどの智慧がない、私は愚か者であることも自然に受け入れられます。その上で、原因と結果の法則があります。私は自分の人生で起きた如何なる些細な出来事も、自業自得と見ることができます。これは人のせいにすることがない悪業からの解放でもあります。幸福な人の必須条件です。

また、輪廻は今ここで起きています。私たちにあるのは過去や未来ではなく、今ここだけです。やった通りの結果が次の瞬間に生まれています。今ここの縁起の観察が輪廻の種明かしですが、顕微鏡で細胞分裂の一部始終を観察するほどの注意がないと語れません。死んだ後や、生まれる前の生存については、わからないことはわからない、見たことは見たこと、聞いたことは聞いたこと、考えたことは考えたこと、分類ができない人には語ることができません。 今ここの最小単位の「これありて、かれあり。これ滅して、かれ生ぜず。」という観察こそがそのカギです。輪廻と業はべつものではありません。すべては目の前で起きています。 これらの理は人に教えられることでも教えることでもありません。そのように理解したら、残った人生で少しでも、自分以外の生命、他の人の迷惑にならない注意をして生きる以外にさらに道はありません。善因楽果・悪因苦果は、小学生でもおよその理解はできると思います。自業自得、業(行為と結果)は、他の人に対して語る真理ではありません。ブッダは業を意志と説きました。今ここの意志には完全な自由があります。 思いつくままに…



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