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協会の記事ではありません。
サークル仲間の所感です。
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9月5日 瞑想日記 『無我について』 藤本先生の【我を削る?】を読んで
典型的な浄土宗のお坊さんは葬儀中陰の法話で、
「亡くなられた方はお浄土に旅立たれました。お浄土であなたを待っておられることでしょう。どうぞお浄土での再会の日がくるまで、お念仏のある生活にご精進をしてください」
とこのような法話をされる方が多いです。
このような法話は確かに現世で生きる、ふつうの念仏信者に安心感を与える効果があるのかもしれません。しかし、私は口が裂けてもこのような法話はできません。
そもそも、このような考え方の中には無意識的に「我」を肯定する考えが入り込んでいると思います。死んだ後も、現世の記憶や意識が続いて、愛しい人と再開できる…。
仏教は、「無我」という真理が根本にあります。無我を正しく理解することは容易ではありません。普通に無我とは我がないこと…、なんて単純な問題ではありません。
「我」があるという考え方は間違い。しかし、「我」がないという考え方も間違い。
「我」がないのなら、「ない」ものがないと云うのは意味が成立しません。
ここで二つの問題があります。
一つは、「我」とは何か?
もう一つは、「ある・ない」ってどういうことなのか?
私たちが日常に使ってる言葉、「ある・ない」の判断は、「我」があるという錯覚(主体)から生まれています。
錯覚から生まれた見解をベースにした「ある・ない」ですから、基本的に「ある・ない」は、妄想概念に過ぎません。私がある、妻がいる、日本がある、地球がある…、これらも【私にはそのように見える】という程度のものだと私は思います。
お釈迦さまは、「我とはなんであるか?」という問いには直接答えられていません。
ないものを説明すると誤解が生まれます。
「我」を私が説明したら、永遠に変わらない実体、外界の影響を受けずに存在し続けるもの…、と言えるかもしれません。
★「我」の正体は「私がいる」という気持ち(錯覚)
そこで、身体からはじめて、あなたの体は常住ですか? 変化しませんか? と問うなら、答えは「身体は変化し壊れゆくものです」と答えられます。そうすると、身体は我ではないと言えます。仏教では人間を五蘊(五つの塊り)=【色受想行識】と説きます。
感覚も思考も感情も認識も記憶も、どれも変化するものです。
そうすると、それらも「我」ではないと言えます。
「五蘊皆空」という仏教用語がありますが、要は「私」という実体はどこにもないという意味になります。
そうして、結論として「我」の正体は私がいるという気持ち(錯覚)となります。
「私がいるという気持ち」、これなら私たちは毎日付き合っています。
お釈迦さまは「我」と言わずに、このような錯覚を
① Sat-kâyaサッカーヤ=有身(身心がある)
② Sami-mânaアスミマーナ=(私という思い)
③ Aham-kâra アハンカーラ=(私を作ること)
このような三つで説明されたそうです。(要は私という実感のことだと思います。)
★「私」という気持ちの正体は?
結論は煩悩です。私の正体、私がいるという錯覚の一番奥に潜んでいるものは、何としても生きていたいという衝動、感情…、つまり、煩悩です。
この私の正体は表面的には、三毒煩悩。無智と欲と怒りであらわれます。
私という気持ちは、
① まず無智(無明)から、「私」が生まれます。真理を知らない事実を知らないから生まれます。
② 欲は「私」が欲しい
③ 怒りは「私」が嫌う・嫌い
そうして、「私」という気持ち、煩悩が強くなると必然的に、生き辛くなります。
残念なことに、基本私たちはこのような三毒煩悩を燃料にして生きています。
★十二縁起には「我」がない
言われてみたらあたり前のことです。「我」が無くて、十二の錯覚が回転しているというのが真相なのでしょう。あらためて、十二縁起を見たら、「我」の正体を説き明かして、輪廻する図に見えました。(目から鱗!)
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※以上、藤本先生の法話を読んで思ったことです。詳しくは先生の『我を削る?』を読んで下さい。
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