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9月3日 瞑想日記 『65歳で覚ったこと』

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協会の記事ではありません。

 サークル仲間の所感です。  

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9月3日 瞑想日記 『65歳で覚ったこと』

 私は今年で満65歳になり、とうとう年金受給者になりました。曲がりなりにも、仏道を歩み45年ほど経過しました。私は浄土宗の寺の長男に生まれましたが、若い頃から何故か、阿弥陀さま・お念仏の教え・浄土宗・法然上人には関心が薄く、もっぱらお釈迦さまに関心が向いていました。これは物心ついた頃からの傾向です。今では、寺で生まれたことも、ひっくるめて、これらは前世のカルマの影響なのだろうと自分で勝手に納得しています。

 お釈迦さまの教え、実践の真髄のヴィパッサナー瞑想に出会ったのは、仏教を学びはじめてから30年も経過したときです。それまでは独学で、似た実践はしましたが、ようやくホンモノに出会うことができました。

 ヴィパッサナー瞑想に出会った感想は、「なんや、そういうことやったんか!」です。爾来、毎日欠かさず瞑想をしています。私の人生の大黒柱です。

 瞑想を知ったキッカケは、禅宗の尼さんから聞いたスマ長老の瞑想の話です。その後近所の本屋さんに行って、スマ長老の瞑想指導の本を買って、その日からはじめました。

 ありのままを観察する瞑想を続けて、dukkha(苦聖諦)カラクリがようやく見えて来ました。生まれること、老いること、生きること、すべてがdukkhaだと理解できました。

 ★生じたものは、およそすべて滅する 

 ★人生はdukkhaで終わる 

 ★物質的な世界に、価値のあるものなど存在しない

 ★すべてのものごとは、執着に値しない

 65歳になって私が実感として覚ったことは、

 『生きること、人生って芝居のようなもの』です。

 お坊さんの仕事も、家族の一員であることも、私のしている事はすべてお芝居です。

今日やる仕事も、芝居です。お葬式も法事も家族の暮らしもお芝居です。

スマ長老は「人生はゲームです」って語られています。同じ内容かと思います。私はゲームより、お芝居がしっくりします。たぶん、スマ長老の方がシンプルに初期仏教の長老役だけだから、ゲームがピッタリしているのでしょう。

私の場合は、ほんとうに色々な役割、いろいろな衣装、いろいろな小道具が要ります。或る時、坊さん、或る時、じいさん、或る時、農夫、料理人…みたいに、一日に何度も何度も役割を変えて、その都度その都度、それに似合った演技をするので、芝居かピッタリします。

 「人生はお芝居」、お芝居だから、喜怒哀楽の役を演じても、こころは落ち着いています。実際に二年前に両親を亡くしましたが、そのときも両親を亡くした息子の役割を演じ切っていたと思います。手術室に運ばれるときは、病人の役割です。一番緊張する望まない役でしたが、それも演じ切りました。

 すべて演技だから、ほんとうに、腹が立ったり、感情的にはなりません。そうなったら、それは大根役者です。

 演技することの大事なポイントは、どの役割も楽しんですることです。文句は言えないのです。

 唯一、瞑想で坐っているときは演技ではないと感じます。しかし、そのときは空っぽで何も役が無いのです。

 もうすぐ、一番頼りにしている伴侶を亡くす、伴侶を残して自分が去る、という大役がいよいよ廻ってきます。一番大きなdukkhaで、一番大切な舞台になると思いまが、それもボケずに淡々と演じたいと思います。

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