7月21日『冥想日記』 ある檀信徒との問答



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協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。

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7月21日『冥想日記』 ある檀信徒との問答  檀家さんに今年のお盆の案内を送りました。檀家にはいろいろな人がいます。熱心な仏教徒で、お盆の行事などを大切にする人、信仰が好きな人、仏教が好きで探求する人など、いろいろなタイプの人がいます。ある大学の先生で、私の勉強会によく来られる檀家の方から、次のようなメールが届きました。 ★最近思うこと。いぜんご住職は「お釈迦さまの考えから言えば、信仰にこだわるというのも違っているだろう」という話でした。ぼくも、そうだと思っています。すると、仏教は信仰(漫然と、ともかく信じている、強く信じるから)というよりも、仏教の見方を理解することが本質ではないのかなと思うのですが~。要するに、信仰よりも理解というのは、どうなのでしょうか。また、思い巡らせることになるかもしれません。 ★大まかには、仰る通りだと思います。ただ、「理解」という言葉の中味は、どうなっているのだろうかと思います。知識レベルで、本などの教材から思考の産物として、新たな知識を貯めることと、知識を捨てて「智慧」があらわれるのとの違いはあります。 知識は「得たもの」でやがて消えますが、智慧は主観を捨てたときに、「なったもの」で形はないが消えないものです。そこに仏道という実践的な要素(私は瞑想と呼んでいます)があると思います。  何度も言ってることですが、仏教は厳密には宗教というカテゴリーに入りません。 現在の仏教集団は宗教団体ですが、純粋な初期仏教は、「無常・苦・無我」という真理を体験し解脱に至るという、人間(輪廻)を超越する、真の幸福への『道』だったと思います。 そこには、人に対する礼儀はあっても、礼拝や読経などの儀礼もありませんでした。 この深奥は今も同じです。仏教は進化したのではなく、ブッダの時代に完成形で、後には後退しています。昔も今も、人間は信仰が好きなのです。この点を理解している人は意外に少ないです。  一般の人には理解しがたいことですが、悟りをひらいた人(阿羅漢)は、生きる目的などありません。もう、成すべきことをなし終えて、ただ命のある間、人々と共に淡々と生きています。自分が悟った、阿羅漢だとは、絶対に言いません。我が無いからです。 「欲」も微塵もないのです。我がないというのは、そういうことです。 一般の人はそれを聞いて、そんなのつまらないじゃないか! と言うのです。 一般人の暮らしは、刑務所の中で、家具やテレビやソファーに囲まれて、車を買って刑務所の庭をドライブして、次は何を手に入れようかと楽しんでいるような人生です。  本当の自由を知るには、慈しみのこころを育てて、冥想で「何もしないこと」「すべてを放っておくこと」の楽さを体験することが大切です。 このような、本当の仏教を理解できる人は、人類の中の一握りなのだと私は聞いています。 吉水秀樹 拝

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