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協会の記事ではありません。
サークル仲間の所感です。
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5月11日 瞑想日記 『霊的存在について』
幽霊・亡霊・霊魂・精霊・魂・神々・天女・餓鬼…、いろいろな霊的存在の名称があります。それらどの存在も、テレビに出演したり一緒に食事をすることはありません。実際に存在するのか否かも不確かです。
仏教の世界では、生命は肉体を持つ生命と肉体の持たない生命の二つの次元に大きく分けられます。肉体を持つ生命はその肉体を可視できるので、私たちは人間や動物たち、またバクテリアやウィルスなどが存在することは知っています。肉体を持たない生命は認めない人もおられるでしょうが、仏教では普通に存在すると説かれています。
また、そもそも私たち自身が「身体」と「こころ」の二つの要素からできています。こころが何処にあるのか? 実は私たちは知りません。私はしょっちゅう葬式に呼ばれるので、人の遺体を見ます。生前と死の直後肉体そのものは大差がありません。しかし、肉体は直ぐに腐って大きく変化し始めます。こころのエネルギーが抜けたからです。遺体にはこころのエネルギーがありません。肉体は元々自分のものではなく、最初に母から貰い、生前は他の生命を食べて作り維持管理し、死後は地球に返します。そう考えたら私にとって肉体は元々、私自身ではなく乗り物のようなものであったと私は考えます。
私たちの本体はこころというエネルギーだと言えます。そのこころは霊的存在とも言い換えられます。私自身が幽霊のような存在とは可笑しな見方かも知れませんが、私はそんな風に考えています。ですから、死後に何かの理由で肉体を得ず、肉体を持たない生命の次元に変化することもあると私は考え、仏教でもそう説きます。
こころのエネルギーも無常ですが、消えてなくなるものでなく変化するものです。かといって魂のように不変的に存在するものではありません。無常だから無我が成り立つのですが、普通の人はそれを理解できません。
私たちが過去の生を知らないこと、次の生も知りえないことは面白いです。過去の自我は変化して消えて、違った自我が生まれています。しかし、因果法則を観察していたら、およその想像はつきます。この因果法則をある程度観察できることは素晴らしい智慧です。私が死を怖ろしいことと思わないのは、因果法則をある程度知っているからです。
悪霊とか悪魔という言葉があり、そのような存在があるという人もいます。しかし、悪霊に食べられた人も今まで存在しないし、存在するのか否かも問えません。だからこそ、「霊」と呼ぶのでしょう。
霊は人間のこころに影響を与える場合もあるとされています。霊は人間の感情を好むとも説かれていて、なんとなく私には説得力があります。
怒りや嫉妬憎しみの強い感情を持っている人には悪霊が近づいて来るかもしれません。悪霊にはそれらが美味しい食べ物なのでしょうか。
反対に、慈しみや思いやり、優しさのある人には、精霊(よい霊)が近づくとされています。
西洋では何か悪事をして悪霊のせいだと主張する人もいるようですが、悪いことをしているから悪霊が側にいると考えた方が適切だと私は思います。
仏典で説かれる悪魔の正体は、人間の欲、貪欲を誘う自身の囁きと解説されています。
初期仏教の長老も、霊のことなどまったく気にせず生活しても構わない、むしろそのような人の方がよっぽど明るく生きているとも語られています。
結局、霊のこと、解らないことは置いて、自分の感情について真剣に観察し学んだ方がよいのです。世の中を見たら、人の悪感情が次々に伝染して、戦争など不幸な出来事が起きていることは火を見るよりも確かです。
大切なことは自分の悪感情を育てないこと、他人の悪感情に染まらないことです。
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