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協会の記事ではありません。
サークル仲間の所感です。
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10月1日 瞑想日記 『坐っていて想ったこと』
瞑想が続けられる人には、何かしらの喜びや楽しみというご褒美があると思います。私の場合は、禅定のような体験も喜びかも知れませんが、自分のありのままの姿を見たときの喜びが一番大きいと思います。
私の修している瞑想は、ヴィパッサナー瞑想と呼ばれる「観察瞑想」です。観察することが主軸で、それは考えることや意見すること、感想を述べることとは異なります。
観察は客観的にします。
★この人は坐って瞑想しようとしています。しかし、昼ご飯のことや、畑仕事の計画をしています。(笑ってしまいそうですが、観察している私を客観的に見たらこんな感じです。もっと恥ずかしい実態もあります。)
このように素直にありのままを観察できたら、実は喜びが生まれます。私のやっていることは実に可笑しいです。坐って瞑想しようという意志で坐るのですが、坐った途端に食べることを考えています。
このような観察で判ることは、多くの人間の実態はこの程度ということです。15年も瞑想してもこの程度です。しかし、このようなありのままを観察できる人は、妄想も放っておけばその内に消えて、こころの静寂もやって来ます。
もっと言えば、このような情けないような観察こそが、日々の瞑想の醍醐味です。瞑想に対してセルフイメージを持っている人には、この喜び、情けないありのままの自分を見たときの喜びが理解できないと思います。
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酔う・興奮する・掉挙・おごる…、ヴィパッサナー瞑想を15年も勤めていると、自分のさまざまな、微細で隠れた感情に呆れること驚くことがあります。
アビダンマで、これらは【愚かさ】のグループの《掉挙》じょうご=uddhaccaウダッチャに属すると思います。
掉挙とは、浮ついた状態、落ち着きのないこと、自分が何をしているのかわかっていない状態です。
昨日坐って瞑想をはじめました。坐った間もないときは、落ち着きがありません。いつも通り作法をしながら、こころを静めていきます。ふと、畑のことを思い出し、気になっていたこと、畝を耕し、苗を植えることが脳裏に浮かびました。気づきはあるのですが、このような想念には強引さがあって、しばし実行計画を練っていました。
そのとき、ハッと気づき妄想を止めました。多分、30秒ほどの出来事でした。(自分の愚かさにようやく気づいた)
【~したい】という「欲」の思考は、どれもとても感情的なものです。そもそも「欲」というものは、冷静な思考とは違います。「~したい」のですが、その感情には時間軸がありません。
後でするとか、午後にするとか、「欲」はそのような後でする計画とは違います。このことを発見するには観察力も要ります。
「~したい」という感情は後に生まれるものでなく、その瞬間にあります。「欲」には、完璧に理性は含まれていません。
「欲」は、100%欲で、無智と一緒に行動します。
瞑想をしようと云う意志で坐り、そこで「畑の畝たての計画をしています」、つまり、自分が何をしようとしているのかわかっていない状態です。
このようなこころの状態を掉挙と呼び、欲と絡んで現れます。そのような自分の状態を冷静に観察することがヴィパッサナー瞑想です。気づいたら、その場で消えます。
上手にありのままを観察できたら、実に喜びも生まれます。
「喜び」が善心所でなく、雑心所に分類されることも興味深いし、要注意です。
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