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Patipadaパティパダー26/ 6月号 に掲載

  • 6月10日
  • 読了時間: 3分


日本テーラーワード仏教協会

Patipadaパティパダー26/ 6月号

に掲載されました。

            ☆☆☆☆☆

「名古屋初期仏教デー花まつり仕様」レポート

「第13回を迎えた花まつり」

      文・吉田牧生

第13回を迎えた今回の花まつり。これといった活動拠点もないこの名古屋で、 いろいろな人に引き継がれ、スマナサーラ長老にも来ていただき、この開催に至った。善き哉。善き哉。

参加者は私が数えて110人位。このところ増えているかな。

それに今回の会場は第1回と同じ「日本ガイシホール」でした。震災後の耐震工事を終え、新しく生まれ変わったこの場所を再び踏みしめることに、深い感慨を覚えます。

今回、智美さんから「レポートを」と頼まれ、一度は断りました。もう老兵の出る幕ではない、と。しかし、いつもの投稿のような本音でいいと言われ、筆を執ることにしました。

準備のあい間に、時々話す30~40代の男性と、死を認めることをポイントに話しました。ひとりは、「瞑想を始めてから、 ますます生きる元気が湧いてきた。家族愛も深まった。死なんて考えられない。もっと生きたい」と熱く語る。もう一人は

「死を認めたいが、現実には・・・・・・」と葛藤している。それで何より仏教活動も瞑想もやっていると。あなたはどのようにして死を認めることができたか?と聞かれる。 生々しく話しました。「『無常の見方』 スマナサーラ長老著を読んだか?」 「読みました」「終わりの方に、「無常を理解するには、死を認めるのが早道」ってところは?」「知らない」。

彼らの言葉は正直です。スマナサーラ長老が説く「執着を手放す」という教えよりも、今はまだ、自分の思考をベースにして瞑想する?かな。「この世俗をどう賢く、豊かに生き抜くか」というところに、 皆の関心が集まっている。そんな風に感じました。それが今の「仏教」の受け止めのリアルな姿なのかもしれません。

今回の長老の説法は、シンプルで厳しいものでした。「川に落ちた時、なぜここに川があるのかと怒るのではなく、まず泳ぎなさい。 せめて浮かびなさい。そして向こう岸へ。 世界は変えられない・貪瞋痴の激流。 自分が変わるしかないのだ。」

その後の質疑応答で、近所付き合いや会社での不満を訴える声を聞きながら、 私は思いました。人はどこまでも「自分」 が可愛く、自分中心の思考での解決策を求めてしまう。2500年前、お釈迦様が最初に説法を躊躇されたという話も、 今なら「さもありなん」と深く頷けます。

この名古屋初期仏教デーの花まつりと共に歩んだ19年。長老の言葉に食らいつき修行を重ねてきた歳月で、今の私があります。かつては「自分」を確立しようと必死だった私が、今は「世界にあるのは無常と因果法則。無いのは自分と自分のもの」という安らぎの中にいます。

死を認めるのには、トコトン理性を深める道。もう一つはトコトン自分と対峙してワープする道。有為を喜ぶから無為を喜ぶ世界へ。日々に自分の花まつりをやり続ける、ですね。?三宝の智慧に護られて、それを支えてくれた若い世代に、心からの感謝を込めて。 ありがとうございます。了

〜〜今回の花まつりのレポートは昨年から佐治さんと、東海ダンマサークル創設者の牧生さんにお願いしようと決めていました。出来たレポートを読み善心が湧いてきました。牧生さん、先を歩き、道をつくってくれてありがとうございます。 うれしさ、喜びいっぱいで私もその道を後から歩いていますよ。〜〜

 
 
 

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