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協会の記事ではありません。
サークル仲間の所感です。
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先の大戦においての日本全土の空爆や核兵器の使用、沖縄の地上戦は、もしかすると規模に於いて今のパレスチナの比ではないかもしれない。それでは、進駐してきた米軍に恨み、憎しみを持ったかというと、どうもどういうわけかそういう感じはあまりしない。父母の世代は軍国少年、軍国少女であったにもかかわらずである。
苦しい戦争が終わったという安堵感、相手の圧倒的な物量をこれでもかと見せられたこと、そして何よりもがんじがらめに縛られていたものから自由になった解放感が、はるかにそういうものを上回っていたからではないだろうか。
それから日本の風土性というか、一神教がなかったということもあると思う。
絶対的に正しい「永遠性」をいうことは異教に対する当たり方も極めて厳しくなる。
思考を変えることは容易ではない。
日本においては、凶暴な戦国武将といえども「是非もなし」(仕方ない)「夢幻のごとし」という思想を持ち得たことがあると思う。
これは仏教思想の影響であろうし、先人方の努力の賜物と言えるのではないか。
「諸行無常、ただ春の夜の夢のごとし」は多くの人々に刷り込まれてきているのであろう。
風土性やその思考のあり様に対して、戦前の思想統制は随分きついものであったに違いない。
ものに対する執着よりも思考に対する執着がはるかに強いと言われる。
角度のついた思考、特定の思想に基づいた思考は偏見に陥りやすい。
意識、意思、思考は実際の行為よりも影響力が強いという。ものの見方、認識に瞬間瞬間影響を与えて、ある角度で認識することが常になってしまって、なかなか変えにくい。行為は一度で、過ちに気づけば変えることは出来る。しかし偏見という角度のついた思考は直しにくいと思う。邪見がその最たるものであろうし、自分に対するダメージもマックスとなるそうである。
今繰り広げられていることは、この思考が邪見になったことが大きな原因ではなかろうか。
儀式儀礼ということも、頑なに変えようとしないと思考の縛りが根底にあるのではないだろうか。
自由(身勝手というのでなく)で革命的な思考は、がんじがらめになっている縛りを解き放つ、角度のない知恵の認識ではなかろうか。
見の解放が本当の革命のような気もする。
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