自分の仏教の勉強の仕方のいい加減さも結構役立つ
- 6月10日
- 読了時間: 3分


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協会の記事ではありません。
サークル仲間の所感です。
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追加のエピソードや「87歳」という具体的な年齢、そして何より**「なんか凄くクリヤーな感じだった」「実に面白い」**という瞑想の実践者らしい瑞々しい感性が加わり、さらに魅力的な文章になりましたね!
「笑い」や「〜ですかね」といった口語の温かみを残しつつ、エッセイとしてよりリズム良く、読者の心にストンと届くように推敲いたしました。
無糖小豆とロータス。新作オヤツが教えてくれた、「私の実態」
87歳の今も、私がやり続けている習慣がいくつかある。
慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想、真っ向法。そして、数年前から始めた「オヤツづくり」だ。
これまでは、季節の果物やバナナ、レーズンをホットケーキミックスに混ぜ、炊飯器で「失敗なしのフルーツケーキ」を焼いて楽しんでいた。しかし、私の探究心は次のテーマへと向かう。
「甘いものは食べたい、けれどカロリーは控えたい」
市販の和菓子も美味しいけれど、度々食べるわけにもいかない……と言いつつ、結構食べてはいるのだが(笑)。それでも、あれこれと手作りオヤツのアイデアを巡らせる時間は、私にとって格別の楽しみなのだ。
昨日、そんな試行錯誤のなかから生まれた新作デザートがこちら。
井村屋の無糖小豆(45gパック) [約35kcal]
ベルギーのクッキー「ロータス」1枚(細かく砕く) [約30kcal]
ヨーグルト少々 [約10〜20kcal]
トータルで「80〜90kcal」という、なんともヘルシーな一品だ。
しかし昨夜、これを実食した際、私はオヤツ作り以上の「気づき」を得ることになった。
井村屋の無糖小豆を口に含んだ瞬間、自分の先入観……いや、「私の実態」に気づかされたのだ。
初めて食べるものに対して、「どんな小豆なのだろう?」という素直な観察眼がすっぽりと抜けていた。頭のどこかで、おはぎの「あんこ」のような甘みを勝手にイメージし、その幻を追いかけてしまっていたらしい。
実際の小豆は、ドライで小粒。そして当たり前だが、まったく甘くない。その事実に一瞬びっくりしてしまった自分がおかしかった。無糖なのだから甘くないのは当然なのに、その瞬間の感覚は、なぜだか凄くクリヤーだった。
「先入観(見解)を持たずに、ありのままを観る。感じる。」
これは瞑想で一番大切にしていることだ。しかし、日常のひとコマになると、自分の「実態」がもろに露呈する。いやはや、実に面白い。
「オヤツの甘さは控えめがいいが、修行の甘さは自分自身の甘さ」と、苦笑いする。……いや、「苦笑い」で済ませている時点でもう、自分への甘さが出ているのかもしれない。
手作りの手間暇をかけるプロセスは、そのまま「自己を観察する」という実践に繋がっている。
「先入観を交えず、素直に、ありのままを観る」
これこそが本来、人間がやるべきことであり、普通の生き方の基本なのだ。
アルボムッレ・スマナサーラ長老が常々おっしゃっている、**「先ず、人間に成りなはれ」**という言葉が、いま深く身に染みる。
その真意が、この無糖小豆の味を通して「そうか、そういうことか」と、腑に落ちるように納得できた。
実は、試作の味見をする直前、長老と花村さんの対談本『慈しみ主義』をパラパラと捲(めく)っていたのだ。そのとき目に留まった18ページの言葉――「先に人間であることを学んでもらわないとね」――が、小豆の味とともに鮮やかによみがえってきた。
読書というのは、単に知識を得るためのものだけではない。今回のように、本の一節がその場の現象の流れと溶け合い、私を「気づきの世界」へと誘う案内役になってくれることもあるのだ。
自分の仏教の勉強の仕方のいい加減さも結構役立つ。格好つけずにやり続ける。まあ素直に認めてやろう。



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