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協会の記事ではありません。
サークル仲間の所感です。
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9月27日 瞑想日記 『今朝考えたこと』
私は初期仏教を学ぶ日本仏教の坊さんです。それで、テーラワーダの比丘とは違った仏教観が生まれます。悪く言えばダブルスタンダードのどっちもつかずになり、良い意味では、それぞれの特色を柔軟に理解できます。しかし、私の場合は日々の生活や修養では初期仏教の考えが軸になって、信仰はしていません。
お釈迦さまの教えはこころを育てることです。信仰は邪魔になります。本気で信仰する人は観念の固定という面が強く、排他的になりこころが育ちにくくなります。
★初期仏教 → 観察する・気づいている・こころを育てる・解脱する
★日本仏教 → 信じる・信仰して教義に委ねる・よい世界に転生する
強力な新興宗教の信者やイスラム教などで、神を絶対とする人とは付き合いにくいのは信仰で考えが固定されているからだと思います。
信仰の正体は、神や仏の意志と言いながら、自分の考えを絶対と固定すること(正しいとすること)に近いです。
日本仏教が無意味な教えかと言えば、そうでもありません。そもそも、鎌倉時代のような字も読めない、食べるものも満足にない状況のなかで、法然の念仏往生の思想が生まれ、広く受け入れられました。受け入れられたのには、それなりの理由があり、念仏の教えでこころが育つことも、解脱することさえあり得ると思います。しかし、その道は上に書いた単純な信仰によるものではありません。一言で言えば、先人が語っているように、念仏の教えにすべてをゆだねて、「捨てる・離れる」遠離の道に入ったからだと私は思います。念仏者は最終的に、念仏も捨てる、来世の極楽往生も捨てる、今ここですべてを捨てるところまで、こころを浄化させることが可能であり、実際にそのような先人たちの記述が残されています。
現代の日本人は日本仏教を信仰しているのかと言えば、それも単純な話ではありません。信仰より、先祖を大切にして八百万の神を認める大らかな一つの伝統文化として、日本仏教もお念仏も受け入れられていると思います。私の寺は浄土宗に属して400軒近い檀信徒、のべ2000人くらいの人と関わっていますが、日々日常の勤行を勤め、別時の念仏を修する人は、極々稀です。10人以内…です。
多くの人はお盆やお彼岸の行事を大切にして、私の初期仏教の法話を受け入れてくださいます。私の寺の檀信徒にとって、お釈迦さまと阿弥陀さまの違いはほとんどありません。大日如来でも同じです。
23日の地蔵菩薩の縁日にも読経を頼まれ、28日の大日さんの日にも読経を頼まれます。おおらかな文化でもあります。
信者として見たら、テーラワーダ仏教の国の仏教徒も日本の仏教徒も大差はないように思います。
しかし、私の視点では、お坊さんの資質はテーラワーダ仏教と日本仏教では大きな違いがあります。一番大きな違いは、先日お話しした、「生きていること、命に酔っている」という考えに現れます。
★日本仏教のお坊さんは、
生命は尊い、生きていることには価値がある、お釈迦さまは生命の尊さを説かれたと理解しています。そして、来世を願うこころにも、来世でも私が残り、次の世でご先祖さまにお会いすることまで説きます。
★初期仏教のお坊さんは、生命も生存も苦しみである、苦しみの生存にそれほどの価値はない、お釈迦さまはもう二度と母体に宿ることのない真の安らぎ、涅槃(無生)を説かれたと教えられます。
そういう意味では、私の中味はスッカリ初期仏教のお坊さんになっています。ただ、見た目や読経は日本流で、誰とも何とも戦わず、楽にお坊さんができるようになりました。
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