『比べる』について  その二 ②なぜ比べるのか? ③比べることで幸福になっているのか?


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協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。

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『比べる』について  その二


②なぜ比べるのか? ③比べることで幸福になっているのか?

 このことを考える前に、スマナサーラ長老は、 『比べることは「ちょっとした病気」のようなものです。』と仰っていました。私たちも「ちょっとした病気」を持っていると理解されたら、その対処に良いと思います。

 比べること、計ること、区別すること、そこから優劣や損得を判断することは、簡単には止められません。その単純な理由は、比べることで、「福楽」が得られる。幸福になれる、あるいは不幸な目に遭いたくないと考えているからです。もし、比べることで不幸になると知っていたら比べないはずです。  まず、単純な例で考えてみます。昨日たとえに出したアボガドの買い物も、美味しいものが食べられるという福楽があってのことです。 ・AとBのどちらの学校に進学することで就職が有利になるか。 ・今夜の食事は、外食するか家で食べるか。・どの病院を選ぶか。 このような例は単純ですが、どちらの選択が福楽を得られるか、選択に失敗して不幸な目に遭いたくないという考えがあっての「比べる」と言えます。

 次の例はどうでしょうか? 今私は、プリウスっていうトヨタの車に乗っています。もう八年目くらいになります。先日檀家さんの家に法事に出かけたら、その家に新しいハイブリット車が駐車してありました。私は何気に見て、「カッコいいなぁ…わたしも欲しいなぁ」と思いました。私の車は走行距離4万キロくらいで、故障もまったくありません。つまり、新しい車の必要は一切ないのです。以前学びましたが、「欲」というのは自分の所有している物には生じないと…、自分の所有物を欲しいとか、素敵だとか思わないのです。所有「自分の物」という煩悩、妄想は怖ろしいものです。私は自分の車と檀家さんの車を計ったわけですが、まったく幸福にはなりません。このこころの動きに気づいたので、直ぐに捨てられました。外国に旅行して、自分の慣れた車があればどれだけ便利でしょうか、自分の所有している車から得られている福楽には興味関心がないのは困ったものです。今ここに実際にある福楽が見えていないのです。

 私たちの世俗の暮らしでは、どちらに行けば美味しいものが食べられるかを計ることはこぐ普通の考えです。しかし、出家者がいて、どちらの方向に托鉢に出かけたら美味しい施食に巡り合えるかと計って托鉢に出かけたとしたら、この比丘は何時までたっても愚者のまんまで、ただの乞食に成り下がってしまいます。

 ああなったら幸福、こうしたら幸福という考え方は、今ここから離れた欲の世界の入口で、今ここの幸福や、「知足」という仏教の幸福観とはほど遠いです。

また、選択があること、選べることが自由だとする考えがありますが、本当にそうでしょうか?

 まず、あなた自身の「比べる」ことを疑って見ることをおすすめします。比べることで、本当に幸せになっているのでしょうか? 

どうやら私たちは、「比べる」「比較する」「計る」「計算」「区別」「選択」「葛藤」「判断」「評価」「拒絶」「受入」「正当化」などは得意なようですが、「ありのままを見る」ことは得意ではありません。注意深くただ見つめることはしないのです。しかし、冥想とは実にこのこと以外に何もありません。



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