『比べる』ことで不幸になる事例 そのⅢ

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協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。

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『比べる』ことで不幸になる事例 そのⅢ


 私は比べることで不幸せなっている例を理解することは、大切なことだと思います。何故なら、それらの事例の思考パターンを私たちも持っていて、「比べる」ことで不幸になっている事実を見ていないからです。笑い話のような実話から紹介します。

  ★南座観劇の例  私の村のお婆ちゃんたちは毎年、南座へお芝居を見に行くのを楽しみにしています。去年も10人くらいのお婆ちゃんたちが同じ日に南座へ嬉しそうに出かけました。南座へ行く楽しみは、「観劇」と、文字通り「幕の内弁当」を食べることです。芝居で食べる弁当は江戸時代からの庶民の楽しみで「幕の内」と言うのです。この日、参加の仕方が三通りありました。 ① 個人でチケットを買って、当日お弁当を選んで楽しむ人。 ② 喜老会という老人会があり、その会からチケットと弁当のセットで申し込んだ人。 ③ 中信という銀行のご優待で、チケットと弁当のセットで申し込んだ人。

後でわかったことですが参加費用は、②喜老会7000円 ③中信4000円した。喜老会は地域会なので補助金があまりありません。中信の方はお得意さまのご優待なのでお得です。 さて、午前の観劇が終わって、幕の内弁当を食べる時がやって来ました。私の母は③の中信からの参加です。仲良しのこの日を一番楽しみにしていたTさんは、②の喜老会からの参加でした。用意されたお弁当を見比べて、Tさんは驚きをかくせませんでした。喜老会の弁当は普通の一段弁当でしたが、中信の弁当は二段重ねの豪華弁当だったのです。 ああだこうだと言いながらお弁当を食べ始めたのですが、Tさんはこの時にはじめて、自分が払った金額が7000円で、内のお袋さんは4000円しか払っていないことを知ることになりました。喜老会の案内が早かったので、楽しみにしていたTさんは2ヶ月前に予約しました。お袋さんは後で中信の案内が来たのでそちらを選んだというのです。 さて、Tさんはどう考えても納得がいきません。そう言っても喜老会に文句を言うこともできません。この日の南座の観劇は、この幕の内弁当の話題で持ちっきりで、帰りの電車でも、帰ってからも私の耳に届くくらいの語り草になりました。幕の内弁当の話題でこれほど盛り上がったので、元は取ったかもしれませんが何とも面白い笑い話です。

ところで、もしTさんが「比べる」こと、「計る」ことをしなかったら、その日の与えられたお弁当を穏やかに楽しんで食べることもできたでしょうに、現実はそうではありませんでした。  日頃、冥想を実践している方なら、「ありのままを見る」ことでこのストーリィは変化すると思います。さて、何処が間違っていて、どのように対処することで問題が解決するのでしょうか? ★まず、目の前にある弁当と金額には何の関係もありません。 それは例え当日に、価格を見て買った人でも同じです。お弁当はお弁当であり、お弁当と価格は関係がありません。これはもちろん、世俗の見方ではありませんが真実です。仏道を歩む冥想実践者なら、イロハのイです。ありのままを見るとは、見解を持たないことであって、目の前にある弁当に値段など存在しません。

★自分に与えられた一段弁当と、隣の人の二段弁当を比べて、優劣をつけることも意味がありません。あなたは毎晩、隣の家の食事と自宅のそれを比べたりしないでしょう。

 私の若い頃の思い出ですが、真冬の知恩院で修行していました。朝は暗闇の4時ころから叩き起こされて、食事にありつけるのは7時ころです。一汁一菜といいますが、丼鉢の飯・味噌汁・菜葉といった食事です。それでも、私はあれほど美味しい食事はなかったと記憶しています。毎日、それだけが楽しみでした。その内に隣の人の丼と自分の丼を見比べるようになりました。どちらの丼の飯が多いか、沢庵が一切れ多いとか少ないとか、自分の方が少ないととても無念な気持ちがあらわれ、自分の方が多いとホッと安どするような気持になりました。 若い頃の私が、最初に「比べる」ことの苦しみを知った貴重な修行体験です。その苦しみにようやく気づいて、私は明くる日から自分の与えられたものを見て食べることにしました。焦って喰らって、おかわりすることも止めました。どちらが、美味しく、どちらに福楽があるかは言うまでもありません。「比べる」「計る」「選ぶ」ことが幸福と思っていたら、それはとんでもない落とし穴です。 仏道修行と聞けば、仏か聖者のような自分に出会うことを想像する方もおられるかも知れません。しかし、本当の修行とは愚かであさましい自分の姿をありのままに見ること以外は何もありません。ありのままの自分を見ることが修行の第一歩です。 「美味しい」は、丼にあるのではなく、今ここのこころにあると知った修行体験です。




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