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協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。
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業とは意志である
昨日の日記の言葉です。これは長老が仰った言葉で、もとを辿ればブッダの言葉です。業は原因と結果の法則であり、業には、「行為」と「行為の結果」という側面があます。「行為には過去の習慣力」が含まれています。この為に業は「どうにもならないもの」と理解され、運命論と勘違いされてしまうことがあります。 しかし、業には別の肝心な面があります。それが、「今ここの意志」という面です。本当に大切なことは、「業とは意志である」と理解することです。 単純に考えれば、「意志によって、行為は結果をうむ」となります。
何であれ、対象に触れて、思考や感情が生まれるときには、過去の影響を受けています。これは仕方のないことです。生活中に、冥想中に、「カー!」と、音に触れて「カラス!」と思ってしまうことです。しかし、過去の習慣力の言いなりになる必要はまったくありません。何故ならそれが妄想であり、幻覚のようなものだからです。
「見たものは見たまま・聞いたものは聞いたまま・考えたことは考えただけ…」そこで、気づきを入れて終わらせてしまえば、過去の習慣力はもはや影響を持ちません。
昨日食べたリンゴは今食べられないし、明日食べるミカンも今は食べられません。それは妄想だからです。ほんとうにあるのは「今ここ」です。今ここにあるイチゴは食べることができます。それが、「業とは意志である」という意味で、完全な自由を意味しています。
「今ここ」という現実の瞬間は、過去の影響をまったく受けないことが理解できるでしょうか? この法則は例え、刑務所に入れられて身柄を拘束されていても同じです。なにものも肉体の拘束はできても、こころを拘束することはできません。それがこころの世界の真実です。
誰も望むことではありませんが、もし仮に刑務所に入れられたら、解脱直行の冥想道場と思えば最高の環境かも知れません。死刑に処され、そこでこれは私の業であると受け入れ、すべてを捨てたなら、無余涅槃にさえ入れる可能性もあります。 一般の方にこのまま話すと誤解を招く可能性がありますが、すべてが自分の業である、業自性・自業自得の理を見るものは究極の自由を手にするのだと思います。
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