冥想日記 2月21日 相応部 悪魔相応 第三品21 

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協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。

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冥想日記 2月21日 相応部 悪魔相応 第三品21 衆多経去年の11月にスマナサーラ長老がこの経典の解説をされました。とても興味深い内容だったので、自分で訳しながら学びを深めました。衆多経の物語はとてもシンプルです。お釈迦さまの近くで、修行に励む若い比丘たちのところへ、悪魔マーラmāraが老いたバラモンに化けてやって来ます。そして、修行者を輪廻に引き戻そうとするが、完全に失敗するお話です。しかし、面白いのは、「法の六徳」にあるダンマの中核となる言葉を使って悪魔が誘惑し、仏弟子が同じ言葉を使って悪魔を論破するという展開です。単語(言葉)が同じでも、意味が真逆になっているということを理解するのがこの経の大切なポイントの一つです。まず、悪魔についてですが、西洋の一神教での悪魔と違って、仏教でいう悪魔は、一般人の前には決して現れません。それは何故かというと、悪魔マーラmāraの仕事は、輪廻から解脱しそうな人を欲界に引き留めることだからです。それで、かの有名なお話し、菩提樹下で人類初めての解脱者となりそうになった、お釈迦さまのところに現れて、家族総出で必死に、輪廻の世界に引き戻そうとブッダと戦ったのでした。なぜ一般人の前には現れないのかと言うと、一般人は五欲が大好きで、悪魔が現れなくとも、悪魔の言いなりに生きて、決して輪廻から外れることはないからです。つまり、私たちのこころの囁き(願い・欲・幸福感)が悪魔そのものなのです。★ポイント  悪魔(マーラmāra)は、老いたバラモンに化けて若い修行者を巧みに褒めて近づいてきます。そして、若い比丘たちに、人生は短いし、青春はあっと言う間に過ぎて行く、時間を無駄に過ごしてはいけないと言います。青春時代の今こそ、今しかできない、楽しいこと欲望を満喫しなさいと…。さて、若い出家比丘は何と答えるのでしょうか?  以下、私の超訳で衆多経の全文を紹介します。(※正式な翻訳ではありません。)⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄   ◎『衆多経』 私はこのように聞きました。あるとき世尊は、釈迦国のシラーヴァティーにおられました。 そのとき多くの比丘たちが、世尊の近くで不放逸に修行につとめたたずんでいました。 そこへ、悪魔がバラモンの姿に化けて、大きく髪を結い、羊皮の衣を着て老木のように腰を曲げ、息の音を立て、イチジクの杖を手に比丘たちに近づきました。 近づいて比丘たちにこう言いました。「尊者方は、若い出家者、黒髪の若者です。青年期の吉祥の青春をそなえながら、もろもろの欲において遊楽しない方々です。尊者方は、人間世界のもろもろの欲を享受しなさい。 誰もが体験できる、この世の楽しみを捨てて、時間を無駄に過ごしてはいけません」と。「バラモンよ、私たちは誰もが体験できるものを捨て、時間を無駄には過ごしていません。 むしろ、バラモンよ、私たちは無駄な時間を捨てて、誰もが体験できる法にそって、過ごしているのです。なぜならバラモンよ、もろもろの欲は時間の無駄であり、苦しみ多く、悩み多いものであると、世尊によって説かれているのです。そこには多くの危険があります。この法は、何時でも体験できる、普遍性のある、『来たれ!見よ!』と真理に導く、智者たちに経験されるべきものなのです。」  このように言われて、悪魔は頭を振り、舌を出して、眉間に皺をよせて、杖に寄りかかって立ち去った。  そこで、比丘たちは世尊のもとへ近づいた。近づいて、世尊へ礼拝し、一方に坐った。 「尊者よ、ここに私たちは、世尊の近くで、不放逸に熱心に修行につとめていました。そこに、あるバラモンが、大きく髪を結い、羊皮の衣を着て、老木のように曲がり、息の音を立てて、イチジクの杖を手に、私たちに近づきました。」近づいて、私たちにこういいました。 「尊者方は、若い出家者、黒髪の若者です。青年期の吉祥の青春をそなえながら、もろもろの欲において遊楽しない方々です。尊者方は、人間世界のもろもろの欲を享受しなさい。 誰もが体験できる、この世の楽しみを捨てて、時間を無駄に過ごしてはいけません」と。尊者よ、そのように言われて、私たちはそのバラモンにこう言いました。 「バラモンよ、私たちは誰もが体験できるものを捨て、時間を無駄には過ごしていません。 むしろ、バラモンよ、私たちは無駄な時間を捨てて、誰もが体験できる法にそって過ごしているのです。なぜならバラモンよ、もろもろの欲は時間の無駄であり、苦しみ多く、悩み多いものであると、世尊によって説かれているのです。そこには多くの危険があります。 この法は、何時でも体験できる、普遍性のある、『来たれ!見よ!』と真理に導く、智者たちに経験されるべきものなのです」と。世尊よ、このように言われて、バラモンは頭を振り、舌を出して、眉間に皺をよせて、杖に寄りかかって立ち去りました。「比丘たちよ、その者は、バラモンではありません。その者は、あなたたちの目を眩ますためにやって来た、悪魔です」と。そこで世尊は、このことを知り、そのときにこの偈を説かれた。「苦を見るなら、縁起を見るなら、その人はどうして、もろもろの欲に屈するだろうか。 生存欲が固着であると知って、人はそれを律することを学べ」と。⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄悪魔の言う「誰もが体験できる」とは、青春であり、ときめきであり、恋愛であり、五欲を満喫することであり、それこそが、若者の体験すべき大切なことなのです。  比丘の言う「誰もが体験できる」とは、瞑想であり、離欲であり、五欲を離れた安らぎ、つまり「仏法」のようです。また、この衆多経では、kālaカーラ、「時間」という単語も一つのカギになっています。マーラの言う、時間とは一般の人々が理解している時間のことです。  老人が若い頃はよかったと語り、若さを羨ましがり、過去の栄光、もう一度若返りたい…、また、いつか幸せになれる、あれもこれも体験したいなど。要するに、時間が存在し、時間=欲望なのです。悪魔の言う時間とは、欲望のことだと達観するには智慧がいります。一方、仏弟子が見ている「時間」とは、まったくこのような妄想による、時間軸ではないのです。時間はそもそも存在しない。そこでは、「生きている」ということさえが、妄想であるという、真実の世界があります。何故なら、「私は生きている」の正体はただの思考妄想であり、真相は「感じている」、感受があり、六根に六境が触れただけと言うのです。  さて、本当はどうなっているのでしょうか? それを「来たれ!見よ!」と、瞑想して「生きる」ことの真相を自分で発見してください。私はこの経を読んでいて、悪魔の言う「若者」は「バカ者」のように思えました。比丘は「若者たちに経験される」ではなく、「智者たちに経験される」と答えています。「若者」「老人」という言葉も、疑って見る必要がありそうです。 そうすると、悪魔の「時間を大切になさい」とは、「欲望を大切にしなさい」と見えます。⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄⋄★衆多経で使われる大切な言葉、Sandiṭṭhiko サンディッティコー 何時でも誰にでも体験でき、実証できる法。

【法の六徳②】Akāliko アカーリコー  普遍性があり、即座に結果が得られる法。

【法の六徳③】Ehipassiko エーヒパッシコー  「来たれ見よ」と言える確かな法。

【法の六徳④】Opanayiko オーパナイコー  煩悩を除き涅槃へ導く法。

【法の六徳⑤】Paccattaṃ veditabbo  各自で実践して体験すべき法。【法の六徳⑥】

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