冥想日記 12月18日『業kammaの観察』

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協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。

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冥想日記 12月18日  『業kammaの観察』


 「業」には、いろいろな側面があります。やった通りの結果が返って来たという単純なものから、凡夫の智慧を超えた領域のものまで。  今日は、その場で返って来るもの。見ている世界、触れている世界が「業」であるという、一面についてお話します。

 法事で親族が20人ほど集まったとします。全員顔なじみです。一人ひとりとの人間関係が既にあります。朝、お堂で久しぶりに会って顔を見合わせた最初の瞬間、その反応が「業」、「行為の結果」です。ほとんど選択の余地もありません。

 僧侶として、客観的に法事を眺めますと、和気あいあいとした雰囲気の明るい法事もありますが、ときどきとんでもない、険悪な法事もあります。兄弟で財産わけ喧嘩している。お金・土地・家・愛情・生き方などの問題で、目も合わせない人がいたり、そもそもその場に呼ばれない人もいます。

 仲の悪い人たちがいると、直ぐにその空気を感じます。怒りや怨みの波動は直ちに伝染します。こういう人は、いくら読経して親の法事をしても、お堂で毒を撒いているような行為なので、廻向する徳がなく、結局悪業を重ねただけになります。

 もし、過去に出会ったどんな小さな生命に対しても、生命として尊重し、礼儀をつくし、すべての生きとし生けるものと仲良い人は、誰に出会っても、何に触れても、雨の日でも、風の日でも、見るもの、聞くもの、触れるものから喜びを感じることができます。生きている世界が喜びで満ち溢れます。

 反対に、嫌いな人、嫌いな生命、嫌いなものが多い人、悪いことをして人目を避けているような人は、その分地球が狭くなり、不自由になります。犯罪者は隠れて暮らし世界に触れること自体が恐怖でしょう。まさに、自業自得の世界です。

 法事のとき、写真のように、位牌台にお花・お菓子・お供え・御影・燈明・お袋さんが用意した霊膳などを並べます。整然と荘厳された、位牌台を見たら、いつも喜びを感じます。美しくて、見ているだけで、こころが安らぎます。

 自画自賛のようですが、私に嫌いな人がいません。嫌いな生命も、嫌いなものもありません。それは当たり前の仏教者の生き方だと思います。  万一、変な感情が現れたら、それをその場で観察して原因を見つけて、それで終わりです。これ以上の悪業を作らないという意味です。それが気づきの冥想でしょう。

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