冥想日記『viriya ヴィリヤ・精進についてⅡ』





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協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。

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4月28日 冥想日記『viriya ヴィリヤ・精進についてⅡ』  昨日からviriyaについて学び直して、私にとって大きな発見がありました。それは、アビダンマで、精進viriyaは、善心所でなく、雑心所に分類されているという事実です。多くの人は、「精進=善」と思い違いしているのではないでしょうか? だって、八正道の一項目なんですよ! しかし、よく見直したら、「正精進」と書いてありました。こんな基本的なことを見落としていたと思います。  簡単に説明します。 ※精進とは、目的に向かって努力するエネルギーのことです。例えば、オリンピックの代表に選ばれるなどスポーツ選手やノーベル賞を受賞した科学者たちも、それは大変な精進があったことと想像されます。しかし、いくら世間で賞賛されても、それが善いこととは限りません。むしろ、反対の場合も十分あります。  教室で先生の言葉を聞いて勉強しているときに、外からお祭りの音が聞こえたときに、先生の声に集中をむけて聞くのにも精進が要りますが、お祭りの音に注意を向けて聞くのにも精進が要ります。  「意のまま」という言葉があります。これはこころの向くまま、本能のまま、という意味で決していいことではありません。こころは基本、貪瞋痴の煩悩のままが好きなのです。「腹がたったら、怒る」というパターンです。そのように、本能と煩悩のままに精進していたのでは、仏教の世界では何の成果も得られません。  こころが一番嫌がることの第一位は、「瞑想」です。瞑想はこころの流れとはまったく正反対のことをしようとしています。  好きな事をする、見たいものを見る、聞きたいものを聞く、これが「意のまま」です。あなたは自由奔放な人を見て、羨ましがるかも知れませんが、その人は本当は自由でもありません、貪瞋痴のままに生きていてもけっきょく、一時的な幸福感は得られても幸せにはなれないのです。  仏教が推奨する精進は、貪瞋痴の反対の不貪不瞋不痴に向いた精進です。これは魚に歩けというほど難しいことらしいです。  俗世間の精進viriyaは、貪瞋痴に操られています。目の奴隷、耳の奴隷、鼻の奴隷、舌の奴隷、身体の奴隷、考えの奴隷状態での努力です。  しかし、仏教の正精進viriyaは、不貪不瞋不痴の真の自由を得て成り立つようです。つまり、「これは聞かない。それを聞く」「それは見ない、これを見る」と、気づきと智慧で自分で自分をコントロールする精進viriyaです。  私が学んだことは、自分の精進viriyaを、一度疑って見る、無駄な努力で頑張っていることが多いのではないか…ということです。 -------------------------------------------------  スマナサーラ長老の言葉 『数ある善行為の中でも、特にヴィパッサナー瞑想というのは、人間が本来絶対にしたくないことなのです。 心の流れとまったく正反対のことを心にさせるのですから、ヴィパッサナー瞑想こそは心が嫌がる第一番目の仕事であって、他に競争相手はいません。 心はどうしても貪瞋痴に傾きやすいのです。 怒るのは容易いでしょう。怒らないのは難しい。 欲張るのは簡単。欲張らないのは難しい。 そして、普通はそういう状態に気づきません。気づくためにもまたがんばらないとダメなのですね。 ですから貪瞋痴と反対方向に行く修行をやらせることは、魚に「歩け、歩け」と言うようなことなのです。 そこをがんばってやらないといけないのです。 ですからよほどヴィリヤを育てて、「やるぞ」とがんばらないと仏教の修行はできないのです。 そのように、ヴィリヤは仏教で最も大切にし、がんばって育てるべき心所のひとつなのです。』

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