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三月の言葉  2月19日(火)雨 

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協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。


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三月の言葉  2月19日(火)雨 


 「思考とは記憶の反応です。」と少し前に話しました。考えることは常に意識または無意識の反応です。考えることは言葉で表現することであり、それは記憶から生まれます。考えるには時間が介在します。そのような思考から、知識や観念、信念や信条が生まれます。ですから、知識・観念・信念・信条・信仰…、これらは思考によって条件づけされているのです。  あなたの行動が思考によって条件づけされていると、それは孤立したものにならざるを得ません。観念同士は必ず対立しあう仕組みになっています。 私とあなた、わが国と隣国、同じ原理です。

 そこで、冥想とは思考によらない行動、観念の介在しない行為でなければなりません。儀式や儀礼は観念化されたものです。  ただ歩く、ただ見る、ただ聞く、独りある…と言っているのは思考や観念の介在しない行為のことです。ブッダの説かれた気づきの冥想を続けていると、人々が観念のせいでバラバラになっていることが見えるようになるはずです。  知識・信念・観念は元々、物事を分離させる性質がそなわっています。分別する、思考するとは、対象を分けることです。  『信念も信条も決して人々を結びつけません。それは常に人々を分離させます。』  行動が信念や信条、あるいは理想に基づいていると、その行動は当然ながら、孤立し断片化します。思考は時間のプロセスであり、打算や自己投影です。信条と否定、非難と正当化のプロセスです。国家も、宗教も、仏教ですら部派や宗派に分断されて断片化して、対立し合っている姿をありのままに見るべきです。  ブッダが「信仰を捨てよ」、「犀の角のようにただ独り歩め」と説かれたのもこのような真理に基づいていると私は思います。


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