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協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。
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冥想日記 ―昨日学んだこと―《 最初で最後の一手 》
初めに、仏道を進む邪魔をするものは感情(煩悩)です。三毒煩悩は貪瞋痴、「欲」と「怒り」と「無智」です。冥想の邪魔をするのは他の人や外界ではなく私自身です。
昨日の朝、もうすぐニャーナラトー師を迎えての冥想会があるので、当日の歩く冥想コースを歩きました。一周20分ほどの裏山と竹藪の小道です。九月の雨のせいで雑草が伸び、夜露で靴やズボンの裾が濡れました。その時、「草刈をしよう!」と思いました。草刈り機を使えば15分で作業は終わると午後の予定に入れました。お堂に戻っていつものように、慈悲の冥想をしてから坐る冥想に入りました。坐った途端に「草刈がしたい!」と、欲の衝動が生まれ、冥想の邪魔になりました。これは日常によくあることです。朝の冥想の後に予定していることへの意欲が衝動的に必ずと言っていいほどあらわれます。買い物・洗濯・仕事・勉強・人と会うこと…、何であれ予定にいれて「~しよう」と考えている欲・意欲・意志が冥想の邪魔をします。
しかし、昨日はいつもと違った気づきをしました。確かにさっき「草刈をしたい!」と欲が生まれたのは覚えていますが、午前にはするべきことがあるので冷静に「午後に草刈をしよう!」と考えたはずです。それなのに、何故坐った途端に「草刈がしたい!」と冥想の邪魔をされるのかが納得いきませんでした。そのとき静かに、自分のこころの深奥を観察してみて、とても大切なことに気づきました。
「草刈がしたい!」という欲と、「午後に草刈をしよう!」という思考は別物です。後者は理性で考えたことですがあと付けです。前者が最初の欲の衝動です。そして、欲には理性はまったくありません。欲は貪瞋痴100%であって、ひと欠片の理性もないのです。この一瞬の観察は私にとって、とても大切なものでした。今後の私の人生の苦しみを確実に減らしてくれます。
今まで、私はみんなの為に「草刈をする」ということは善行為だし、冷静に冥想の後で午後にしょうと考えているので、どこにも問題は無いと考えていました。これは甘い観察です。
最初の「草刈をしたい!」は欲であり、これがこころに記憶の痕跡を残しています。つまり、「草刈をしたい!」は善行為どころか、三毒煩悩の貪欲にちがいありません。そして、貪欲には理性はまったくないので、坐った途端に「草刈がしたい!」と言い出します。私は、この瞬間にこの衝動を否定することも肯定いることもなく、一部始終をありのままに観たので、この衝動は私に邪魔されずに、花が咲いて自然に枯れて消えました。
子どもの頃に読んだ仏典童話では、ブッダが菩提樹下で冥想しているときに悪魔が誘惑にやって来ます。ブッダが明けの明星が輝くころに「悪魔よ立ち去れ!」と悪魔との戦いに打ち勝ったとあります。あれは間違いです。ブッダは悪魔とも悪魔の誘惑とも戦ったりしていないのです。ブッダは静かに坐って、何もせずに悪魔の誘惑をただじっと見ていただけなのです。一輪の花が咲いて、そして自然に枯れて終焉を迎えたのでしょう。 私も「草刈をしたい!」という悪魔の囁きに、反対も賛成もせずにただ静かに眺めることができたので、その欲望は花が咲いて、そして自然法則で枯れて行きました。 辛抱強く、ただ坐ってありのままを観ることが、最初で最後の一手です。
ニャーナラトー師は "Doing nothing"と教えて下さいました。
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