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「仏道をならうというは、自己をならうなり」


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協会の記事ではありません。

サークル仲間の所感です。  

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吉田 牧生

「仏道をならうというは、自己をならうなり」 一週間山口の瞑想合宿に参加した。「仏道をならうというは、自己をならうなり」これで何かしら節目になる感じになった。 この言葉は今回の面接で、これは禅の言葉ですと長老からいただいたもの。その時はハイそうします。ありがとうございます。 この言葉は何処かで聞いたなぁ〜 そのあと、頭の引き出しから出てきました。若かりし頃座右の銘?としていた「正法眼蔵」の一節だった。 忘却の彼方に置かれていた実に懐かしい言葉。その時蒔いた種が、仏道という智慧のエネルギーを注がれて、芽吹き根を広げている感じがする。ネットを見て「透体脱落」も出てきた。 このさっぱり理解できなかった脱落の感じも、ちょつと手が届く感じがする。 周りと自分との境目がなくなる感じの最近の瞑想は、瞑想する人である単なる地水火風が宇宙の中心にいるイメージで観察する。 これは慈悲の瞑想で、長老から無量をイメージするのに宇宙の中心にいる感じでやるというヒントから始まった。 私の前の方向に住むすべての生命と念じるとき、宇宙の中心にいて、目の前に地球を見、日本列島が見える。反対側から何か煙があがる。ウクライナかな?その先の星々、その遥か彼方の極々微細な星々…へとこころをそ注ぐ。その先に光が見える。こうしていると無量の世界にこころを寄せる感じがする。 こうすることで、無量という概念も字面から、体感へと一歩踏み出せる。これを前後左右上下やる。 こうして慈悲の瞑想のフルバージョンをやっていると、ヴィパッサナー瞑想でも宇宙の中心で座る、立つ、歩く感じになる。 この時は自他の区別がない。身体は透き通っている。そのように観察する。まぁこんな感じでやっている。 充実した山口の瞑想合宿だった。 スタッフのみなさんを ありがとうございます。

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