2019年6月12日2 分

集中と気づき

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協会の記事ではありません。
 
吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。

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集中と気づき

 ブッダの気づき冥想を実践している人は、集中と気づきの違いや特質を理論ではなく身体で体得しなければならないと私は思います。何故なら、集中には危険な要素、排除するエネルギーがあるからです。集中力は大切ですが、ブッダの冥想は集中することが目的ではありません。気づきの冥想と呼ぶのはその意味かと思います。
 
 多くの人は集中にエネルギーを使います。集中は楽しい面がありますが、基本的に気づきは楽しいものではないからだと私は思います。
 
 そもそも、普通に使っている「楽しい」とは、「集中している」ことです。パチンコが楽しい人はパチンコに集中しています。釣りやガーデニングが楽しいという人は、それらに集中しています。セックスがこんなにも人間社会の中で多大な力を持っているのも、セックスがもたらす忘我 ―日常の苦しみのすべてを忘れさせてくれる集中性―が原因でしょう。
 
 カエルでもヘビでも、智慧のない人でも集中から快楽や忘我が得られます。

 「集中」は排除の過程です。境界があり制限があります。何か一点に集中しているときに、他の出来事をまったく見ていません。これが危険な要素です。ギャンブルや不倫やストーカー行為で人生を棒に振るのもこの作用です。背後に欲望が隠れています。
 
 「気づき」には、境界も排除するものも選択もありません。気づきには限界がありません。知識も知識の蓄積も必要ありません。
 
 「集中」によって冥想の目的を成就しようとするのは、知識を集めて真理を知ろうとするような愚かな行為です。
 
 集中力は必要ですが、集中という努力によって気づきに至ることはできません。

 集中は努力や訓練によって得られますが、気づきは訓練では得られません。

 離れる、捨てる、すべて放っておく、無選択の気づき、なにもしない、釣り針のない釣り…、これらの言葉が私の道しるべです。
 
適度な集中力とたゆまぬ注意(気づき)が肝心かと思います。

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