2019年10月11日2 分

☆冥想の落とし穴

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協会の記事ではありません。 吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。

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吉水 秀樹

☆冥想の落とし穴
 
 魔境という言葉があります。自分のイメージ(記憶)にある神格や境地との一体感から「自分は偉い人間だ、目的を達成した」と勘違いするような自我体験でしょうか。私はこの類のことが起きる原因は、「間違った集中」にあると思います。ブッダの冥想において「集中力」は大切な道具ではありますが、それが目的ではありません。
 
 このことを理解するには、今流行の mindfulnessマインドフルネスという言葉がわかりやすいです。簡単に言うなら「こころ全開」でしょうか? この反対が、こころを一つの対象に絞り込む、「集中すること」になります。集中することで、確かにこころは静かになり冥想の態勢は整うのですが、過度に対象に集中すると、他の世界が遮断されて、客観的な状況を理解できなくなります。場合によっては社会生活ができなくなります。
 
 世俗的な例では、趣味の世界が楽しいのは、そこに集中があるからです。「私は〇〇が好き」というのは、「〇〇で他のことを忘れられる」。集中がなければ楽しさもありません。映画を見て、楽しいのはそこに集中があるときです。
 
集中は仏教用語ではsamādhiサマーディと言いますが、漢訳の音写では「三昧・ザンマイ」です。ジョギング・ヨガ・写真・菜園・朱印集め・ギャンブル…、どれもそこに集中があり、楽しみがあります。しかし、ギャンブル三昧は良い言葉ではありませんね。
 
 また、集中には、「忘我」があります。セックスがこれほど、人間社会の大きな問題・羨望の的になるのは、そこに他では得られない手っ取り早い「忘我」があるからだと思います。
 
 しかし、集中には危険が伴うことを知らなければなりません。ギャンブルに集中することが幸福な暮らしを壊すことは言うまでもありません。この理屈は他のことでも、集中が激しくなると周囲が見えなくなる危険があるということです。
 
 ブッダの冥想は、集中して到達する境地を目指すのでなく、気づきの冥想(マインドフルネス)であることを、最初に静かに理解するべきです。手放す・離れる・捨てる、真実を明らかに見る、あきらめるなどがそのキイワードです.

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