2018年12月17日3 分

 『正見』=見解のないこと  

最終更新: 2018年12月21日

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協会の記事ではありません。
 
吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。

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『正見』=見解のないこと   

2018年12月 安養寺みんなの仏教レポート

 今年最後のみんなの仏教テーマは、『正見』でした。見と漢訳されているので、「見ること」と限定されがちですが、パーリ語では、サンマー・デッティsammā diṭṭhi と言います。デッティは、「見解・意見」のことです。そこで、まずは、「正しい見解」「正しい意見」「正しく見ること」「正しく聞くこと」「正しく対象に触れること」と理解されたらよいと思います。
 
 水野辞書にはわざわざ「特に謬見(ビュウケン)」と書いてあります。謬見は「間違った見解」のことです。つまり、見解そのものが「誤見」であることが暗示されています。
 

正見は八正道の一番目の項目ですが、一番目におかれている
 
のも偶然ではありません。そもそも対象に触れることで因縁が始まるので、すべての仏道修行(冥想)の根本と言えます。
 
 また、八正道は、四諦=「苦・集・滅・道」の道諦のことであり、すなわち中道マッジマーパティパダーmajjhimâ patipadâです。仏道を歩む、こころを育てる、修行するとは、八正道の実践に違いありません。

 長老方が「八正道」や「正見」という言葉を使わずに、写真の本のように、

『8マインドフル・ステップ』
 
『心を整える8つの脳開発プログラム』
 
『ブッダが教えた幸せの実践』

と表現されているのも注目して下さい。おそらく、仏教用語として従来の固定観念で見て欲しくないという願いがあると私は感じます。長老方がすでに、優れた解説をされているので、ここでは私のまとめだけを書きます。普段の法話で一般の人にカードを使って説いています。

 普段の生活で、何かを見たり、聞いたり、対象に触れて自分の意見・見解が生まれた瞬間に、気づいて念ずべきことです。

☆見たことが事実ではない 
 
☆聞いたことが事実ではない
 
☆考えたことが事実ではない

◎自分の考えは、どこまでいって自分の考えであって、
 
自分の考えが真理(真実・事実)になることはない

以上の理を日常の暮らしに常に気づいて念ずることが正見の実践だと思います。
 

 スマナサーラ長老は、著書に正見を以下のようにまとめられています。

★鵜呑みにする癖をやめる
 
★データを調べて判断する
 
★客観・主観とも、意見を決めつけない
 
★達した判断を定着させない

 グナラタナ長老は以下のように説かれました。

★原因と結果を理解すること
 
★四つの真理、「苦しみ」「苦しみの原因」「苦しみの滅尽」「苦しみを滅する道」を理解すること

 八正道は正見がすべてに通じる入口であり、他の項目も仏道実践者には日常に現れてきます。それは正しい、見方・思考・言葉・行動・仕事・精進・気づき・集中として現れます。

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