2023年9月4日4 分

9月4日 瞑想日記 『精進努力と何もしないことの矛盾について』

吉水 秀樹 ++++++++++++++++++++++++++++++++

協会の記事ではありません。

サークル仲間の所感です。  

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9月4日 瞑想日記 『精進努力と何もしないことの矛盾について』
 
 私が身近に先生としているニャーナラトー長老は、初期仏教の瞑想を一言で云えば、「doing nothing. なにもしないこ」、と控えめに説かれました。スマナサーラ長老は同じ質問に、「すべてを放っておくこと」と説かれました。そんなわけで、私の日々の瞑想の指標は、「なにもしないこと・すべてを放っておくこと」となります。これは10年ほど、実際に毎日坐って実感する、実践的な間違いのない指標でもあります。
 
 ところで、仏教には「精進viriya」という大切な実践項目があります。日本では、精進努力とも言います。そこで、頭で考えたら、「なにもしないこと」と「精進努力」は、どうもかみ合わず矛盾を感じることがあります。これはいったいどういうことでしょうか?
 
 はじめに、普通の人間は貪瞋痴の煩悩に突き動かされて行動するので、自覚がなくても生命の原動力が煩悩(感情)から生まれていることと関連していると思います。その根源にある衝動を静かに観察して、何もしないで眺めるように見ることが実に瞑想の本質なのです。【これが最初の一手であり、最後の一手でもあることを普通の人は見抜けません。】
 
 別の言葉で言うと人間はこころの底で、前世から引き継いだのか、「何かでありたい・何かになりたい」という衝動をもっており、結果人間の行動は、「しなければならない・してはいけない」の両極の影響を常に受けて、日々の暮らしがあらわれていると思われます。
 
 我々の日常生活をよく見れば、「しなければならない・してはいけない・何かでありたい・何かになりたい・何とかしたい…」このような衝動で動いているでしょう。それ以外に何もないと言ってもいいくらい…。
 
 それらの衝動を解決するにはどうしたらいいのでしょうか? 
 
この大問題のカギが、「なにもしないこと・すべて放っておくこと」になります。普通の常識観では、「それでは何の問題解決にもならないではないか!」、と考えて「止まらず」動き出すのです。
 
 しかし、それでは泥だらけので、皿をキレイにしようとして拭くようなことで、一向に問題の解決にいたらず、それどころか問題(汚れ)はさらに大きくなる一方です。
 
 ですから、「なにもしないこと・すべてを放っておくこと」が重要なカギになります。なにかをすることが、その衝動の言いなりになることであり、それでは問題の解決に至らないからです。
 
 「精進」という大切な仏道修行の指標と、「なにもしないこと」が、一見正反対の矛盾した指標に見えるという問題を修行者はどのように解決しているのでしょうか? 
 
 精進(viriya)は、アビダンマでは、雑心所に位置しています。つまり、「悪事に精進する」ということも、あるということでしょうか? ですから、仏道修行の要、八正道には、『正精進』(正しい精進)と説かれてあります。
 
 スマ長老の解説によれば、俗世間の精進viriyaは、貪瞋痴に操られています。目の奴隷、耳の奴隷、鼻の奴隷、舌の奴隷、身体の奴隷、考えの奴隷状態での努力です。
 
 しかし、仏教の正精進viriyaは、不貪不瞋不痴の真の自由を得て成り立つようです。つまり、「これは聞かない。それを聞く」「それは見ない、これを見る」と、気づきと智慧で、自分で自分をコントロールする精進viriyaです。
 
 そこまで、考えてようやく明かりが見えて来ます。瞑想実践による「なにもしないこと・すべてを放っておくこと」それ自体が、実に正精進なのです。
 
 凡夫の我々は、何かに触れたら、走り出します。これが煩悩の言いなりに動き出すことです。ですから、「なにもしないこと」は、こころが最も嫌がることなのです。
 
★スマナサーラ長老の言葉
 
『数ある善行為の中でも、特にヴィパッサナー瞑想というのは、人間が本来絶対にしたくないことなのです。 心の流れとまったく正反対のことを心にさせるのですから、ヴィパッサナー瞑想こそは心が嫌がる第一番目の仕事であって、他に競争相手はいません。 心はどうしても貪瞋痴に傾きやすいのです。 怒るのは容易いでしょう。怒らないのは難しい。 欲張るのは簡単。欲張らないのは難しい。 そして、普通はそういう状態に気づきません。気づくためにもまたがんばらないとダメなのですね。 ですから貪瞋痴と反対方向に行く修行をやらせることは、魚に「歩け、歩け」と言うようなことなのです。 そこをがんばってやらないといけないのです。 ですからよほどヴィリヤを育てて、「やるぞ」とがんばらないと仏教の修行はできないのです。 そのように、ヴィリヤは仏教で最も大切にし、がんばって育てるべき心所のひとつなのです。』
 
 このような訳で、「なにもしないこと・すべて放っておくこと」が、究極の「精進努力」ということになります。
 
 覚えておきましょう「なにもしないこと」が、究極の正精進と!

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